

萩原朔太郎生家跡
県庁から400mほど東の路地にある。碑石は門柱の1本で、もう1本は広瀬河畔の詩碑に使われた。残っていた建物のうち、離れの座敷と書斎、土蔵が敷島公園に移築復元され、萩原朔太郎記念館となっている。
県のホームページに、空っ風吹きすさぶ北緯36度付近から名だたる文学者が多く誕生したと指摘する一文がある。詩人の萩原朔太郎、高橋元吉、萩原恭次郎(以上前橋)、湯浅半月、大手拓次(ともに安中)、山村暮鳥、歌人の土屋文明、吉野秀雄、俳人の村上鬼城(以上高崎)、童謡詩の石原和三郎(みどり)、小説の田山花袋(館林)らだ。
湯浅半月(1858―1943)は1885年「十二の石塚」を発表し、兄・湯浅治郎が詩集として刊行した。西洋の詩形と精神を取り入れた新体詩による国内初の個人詩集となった。
北原白秋に師事した萩原朔太郎(1886―1942)は、処女詩集「月に吠える」(1917)の口語体による表現で一躍名を知られた。口語自由詩を確立したと評価される一方、詩論や評論にも優れ、多くの著作を残した。朔太郎と交流が深かった山村暮鳥(1884―1924)の「聖三稜玻璃」(1915)は、あまりに斬新な表現方法が物議を醸した。

鬼城草庵
村上鬼城が晩年を過ごした居宅。鬼城は「並榎村舎」と名付け、句会「五日会」を主宰して後進の指導に当たった。書斎や客間が当時のまま保存され、資料館には正岡子規とやり取りした書簡などが展示されている。
土屋文明(1890―1990)は伊藤左千夫に師事し、短歌誌「アララギ」に参加。選者や編集発行人として、アララギ派の指導者的役割を担い、万葉集研究でも活躍した。
8歳から高崎に暮らした村上鬼城(1865―1938)は、正岡子規との交流を契機に句作に開眼。松尾芭蕉や小林一茶に比肩するとの評価を受け、その作風から境涯の俳人と呼ばれる。
評論「露骨なる描写」で自然主義文学を提唱したのは田山花袋(1871―1930)。中年作家が女性の弟子に抱いた恋心を生々しく描いた「蒲団」(1907)は、自然主義文学の方向性を定め、私小説のさきがけにもなった。
これら文学者たちは、自らがそれぞれの分野で先駆者、旗手として活躍しただけではない。互いに、また全国の文学者たちとも交流し、影響を与え合い、現代文学へと連なる流れを生み出していった。

漢詩「上州人」の碑
「上州人」は、病床にあった内村鑑三が亡くなる1カ月前、見舞いに訪れた親友の住谷天来に贈ったもの。碑は内村が少年時代に魚を捕って遊んだ烏川を望む、頼政神社(高崎市宮元町)境内にある。

県立女子大 富岡賢治学長
【群馬学】
何を誇りと考え、何を発信するか
県立女子大(玉村町上之手)は2004年度、言葉や文学、歴史、民俗、経済など多方面から“群馬とは何か”を考える「群馬学」の取り組みを始めた。各界の識者や研究者、一線で活躍する人物などを招き、11回の連続シンポジウムを開催。また、地域貢献充実の側面も含めて関連授業を県民に公開し、公開講座も開いている。富岡賢治学長に話を聞いた。
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取り組みの発端は、同大が実践的な外国語教育や留学支援など、国際化時代の人材育成を進めるに当たり、日本や群馬の言葉、文化などを確実につかむ“足元固め”が重要と考えたこと。
群馬は東西日本、また太平洋側・日本海側の言葉の交差点であること、古代遺跡が豊富、文学は短詩形が有力なことなどの特色を持つ。こうした側面から見つめ直すと、「群馬は開放的な異文化共生社会であることが浮かび上がった」(富岡学長)という。
県民の認知度が高まっており、テーマについての要望なども多く寄せられる。多方面から知を結集するため、一部の学者らだけでなく地域で研究活動を行っている人などの成果も、広く吸い上げたい考えだ。
国際化と並ぶ、現代のキーワードが“地方”。群馬学の試みは、地方が何を誇りとするかの確立につながる。富岡学長は「全国に『地方のアイデンティティーを発信しよう』というかけ声があるが、何を発信すべきかよく考えることが大事。街づくりのコンセプトなども、そこから生まれてくる」と話している。