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冷涼な気候で軟らかく/全国出荷量の4割占める

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村に広がるキャベツ畑

 嬬恋村といえばキャベツ―。その名は県内のみならず全国に知れ渡っている。夏秋キャベツの年間出荷量は全国の4割以上を占めており、名実ともに“キャベツの村”だ。一体どのようにして現在の地位を築き上げてきたのだろうか。産地化までの歴史をたどった。
 2005年度農林業センサス調査によると、村内の512戸の農家がキャベツを生産しており、その面積は2757haにもなる。昨年度は年間約1600万ケース(1ケース10kg)を出荷。北は東北地方から南は沖縄まで流通しており、常に全国トップクラスの生産量を誇っている。

明治後期から

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キャベツの共同収穫の様子(1939年)。当時はカヤ俵に入れて出荷していた。

 嬬恋村史や嬬恋村農協史によると、同村でキャベツが初めて作られたのは明治後期。試験的に導入されたとの記述が残るが、具体的な内容は定かではない。当時の村内の農業は自家食用が中心で、アワやヒエ、大豆、ソバなどに加えてキャベツが作られていた。
 昭和に入ると生産拡大と出荷が本格化した。1933年に同村と長野県をつなぐ鳥居峠が開通したことで流通ルートが整ったためだ。生産振興に寝食を忘れた人もいた。昭和初期、営農技術員だった塚田国一郎さん(故人)が自ら工面した金で農家に肥料を買い与えたという記録が残っている。こうしてキャベツは炭やジャガイモと並び、換金作物として注目されるようになった。戦後は作業の機械化が進み栽培技術も向上。作付面積は飛躍的に増えていった。
 村にこれほどまでキャベツ作りが広がった理由として、JA嬬恋村営農畜産課の黒岩晋課長は「最適な気候条件」を挙げる。火山灰地質の土は水はけや水もちがほどよく、夏場の涼しさに加えて昼夜の気温差も大きい。また降雨量も多いことから、食感の軟らかいキャベツに仕上がるという。

まねできない

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周囲の農家に農薬散布を控えるよう促すため、収穫期間にほ場に立てる黄色い旗。産地を守るアイデアだ。(写真左)
出荷用のダンボールには「ぐんま嬬恋 高原キャベツ」と印字して産地をアピールしている。(写真右)

 さらに、先代から受け継がれてきた栽培技術によるところも大きかった。米など換金作物が育ちにくい高冷地で、キャベツはいつも生計を立てる財産そのものだった。黒岩課長は「同じ品種でもほかの産地で作れば、味がまったく変わる。嬬恋のキャベツはほかでは絶対まねできませんよ」と、自慢の味覚に胸を張る。