1942年、前橋市生まれ。慶應義塾大学商学部卒。1891(明治24)年の創業以来、優れた小麦を生産する群馬県の地に根を下ろす曽我製粉の4代目社長。常に本物のおいしさを追求、あるべき食の文化を発信し続けている。国際ロータリー第2840地区2005〜2006年度ガバナー。
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シリーズ<7> 2007年1月17日掲載
今こそ、群馬ルネサンス
曽我製粉代表取締役社長 曽我 隆一 さん
本社屋でのインタビューの後、前橋市内の遊園地「るなぱあく」を訪れ、県産小麦で作られた前橋ピザ≠手に、撮影に応じてくれました。
 ■お弁当作りでリフレッシュ■
まず、現在の食生活について伺えますか?
(曽我) いくつかパターンがありますが、朝は麦ご飯が多いですね。1週間から10日に一度はパン。お昼は、会社で(開発商品の)試食をしたり、朝残った麦飯を自分でお弁当に詰めていったり・・・。子供が小さいときは、幼稚園のお弁当を作るのが趣味でね、だいぶ作りましたよ。
お料理が好きでらっしゃるんですか?
(曽我) 好きというわけじゃないけど、リラックスできますよね。気分転換になるというのでしょうか。時間があると、手打ちうどん。8歳になる孫も見よう見まねでやりますよ。
(開発商品の)試食はよくあるのですか?
(曽我) 粉の用途は非常に広く、うどんやパンと多岐にわたっていますよね。会社には研究開発もあるので試食もします。夜は外食がほとんどですね。
ご自宅で食事されるときのパターンはどんな感じですか?
(曽我) (お酒を)一杯やったときは、あまり食べないように心掛けています。それと、脂肪分や糖分の少ないもの、(具体的には)野菜を取るようにしています。
好きな食べ物は何ですか? 魚が好きとか。
(曽我) おいしいものは何でも好きです。やはり、群馬は山国ですから、おいしい魚は魅力がありますよね。アユは、あまり好きじゃないんだけど、唯一、時々、「釣れたから」と、もらうんです。そういうのは、おいしいと思いますね。自然のコケを食べたりして育ったアユは、素材がいいんでしょうね。
 ■昔ながらの麦ご飯を食べる■
幼児期の食の思い出は?
(曽我) とにかく、甘いものがなかった時代でした。われわれが育ったのは戦後で、学校給食が始まったころです。脱脂粉乳や、それからわれわれの製粉が絡んでくるのですが、コッペパンとか。マーガリンが最高においしかったですね。私は(前橋市立)桃井小学校だったんですが、6年生のとき、朝日新聞社の全国健康優良児に表彰されましてね。大したものを食べてなかったんですけど、なぜか選ばれてメダルをもらったのを思い出しますね。
先ほど、麦ご飯を食べてらっしゃると伺いましたが、なぜ、麦ご飯を? 「消費拡大のため」「健康のため」「おいしいから」どれでしょうか?
(曽我)

うちは、明治時代から米屋だったんです。大正に入ってから昭和30年代前半ぐらいまで、製麦もやっていました。麦も真っ白い「白麦(はくばく)」という米に似た麦ではなくて、昔ながらの線(フンドシ)の入った「押麦」を、今でも食べています。私どもの関連商品でもあるし、繊維質も多い。尾島を中心とした特産物にヤマトイモがありますが、麦とろ飯にするなら、白いご飯より麦飯の方がずっとおいしいですよね。
もともと群馬県は、米文化ではないんです。お米というのは本当に貴重で、むしろ麦や雑穀類を主食としていました。うちの先祖は、麦を東北地方に輸出していましたが、東北の人たちは米を関東に売り、普段は麦を食べていたんですね。それを生業(なりわい)としていたのが、うちのルーツです。群馬県の人が、米を食べるようになったのは、ごく近年になってからだし、白いご飯が食べられるようになったのは、昭和31年に経済白書が出されて、「もはや戦後ではない」という有名な言葉がありますが、その辺りからではないでしょうか。昭和33年ごろに即席めんが世に出てきて、それから日本は高度経済成長期に入った。白いご飯を食べる食習慣としての歴史は非常に浅いけれども、小麦の産地としては全国的に有名でした。

群馬県の小麦の生産は全国で何番目ですか?
(曽我) 北海道が、ずば抜けてナンバーワンですね。次は、九州の福岡、佐賀。群馬は4番目。関東ではトップです。
 ■「食は非常に保守的である」■
「地産地消」が叫ばれる中、「つるぴかり」や「きぬの波」など新しいブランドが作られていますね。
(曽我)

歴史をひもとくと、われわれの業界のトップは、日清製粉です。館林に日清製粉の発祥の地があり、今はなくなってしまったけれど高崎の駅前に日本製粉と日清製粉があり、太田に昭和産業があり、大間々に星野物産、そして前橋に私どもの曽我製粉がありました。いずれも原料である群馬県の小麦を手に入れやすい土地に工場を持っていた。ドイツでもそうですが、基本的にはそこで取れた原料を調達して、製粉して、加工するという循環型の農業が昔からあった。それを、今流にいうと、「地産地消」ということになるんでしょうね。
なぜ、地産地消が叫ばれるようになったかというと、一つには、戦後、豊かになって高度経済成長期に入った日本は、工業製品を世界に輸出し、逆に食料品を輸入するというパターンが多くなり、食料自給率は40%となってしまった。あまりにも、輸入品が多くなったために、農業も姿を変え、食生活は巨大な食品メーカーが全国を席巻する、ナショナルブランドの食に変わってしまいました。それをもっとエスカレートさせたのがコンビニエンスストアの出現。ふるさとの味とか、おふくろの味が一時期忘れ去られてしまったんですね。
そうした中で、バブルが崩壊したり、いろいろな病気も出てきたり、経済一辺倒のつけが回ってきた。BSEの問題や中国のホウレンソウの残留農薬の問題、ナショナルメーカーの偽装表示など国民の信用を揺るがす諸事件が立て続けに起きました。消費者としては、確実に安全性を確保したものを食べたいというニーズが、揺り戻しとして起こっているのが今の時代だと思いますね。
その中で、私どもは何をしているかというと、輸入だけに頼るなら、何万トンの船が着く港に工場を移転した方が、ずっと採算に合うわけです。大手は昭和50年を境に群馬県から撤退し港に移ってしまった。今、残っているのは、私どもと星野物産の2社です。私たちは、先祖がお世話になった群馬県の地に足を着けて、ナショナルブランドではなく地場産業としての製粉が必要ではないか、それが今の時代の流れに合っているのではないか、という経営戦略を立てて、これまでやってきています。

地元産の大切さは、原料の小麦だけでなく、それを使った食品にも言えますね。
(曽我) 昔からの伝統的な粉食加工品として、おやき、おきりこみ、炭酸まんじゅう、焼きまんじゅうなどの製品があります。それを一時、外国産の小麦で作ったんですが、やはり昔から食べている人は、「どうも、違う」という動きになった。群馬の伝統的な銘柄で「農林61号」という品種がありますが、世界でもこれだけロングランの品種は珍しい。昔の農家の人は、「61号でないと、うどんの味がしない」というほどです。最近は「つるぴかり」や「きぬの波」「ダブル8号」が出てきたため、レパートリーが広がりました。「きぬの波」を使ったうどんは、ちょっと洗練された色白の都会的な雰囲気で、若い人に人気です。「高崎うどん」として、JAたかさきを中心に熱心に展開しています。
製粉会社として、食産業との連携はいかがですか?
(曽我)

私の持論は、「食は非常に保守的である」ということです。朝食をご飯・みそ汁から完全にパンに切り替えることは難しい。昭和60年代に大凶作があったときは、さすがに朝食をパンにしようという家庭が増えましたが、そういうインパクトがない限り、人様に言われて変えるものではない。まして、夕飯にパンを食べる習慣は日本にはないんですね。むしろ、ご飯とめん類とパンと、うまくバランスを取っているのが日本人の食生活と言えるのではないでしょうか?

 ■るなぱあくと「前橋ピザ」■
県産小麦だけで打つうどんを提供するお店を認定する、御社独自の制度を始められましたね。その後、広がっていますか?
(曽我) 少しずつ広がっていますね。生産者もわれわれ製粉メーカーも行政も、もっとPRしていく必要があると思います。ただ、無理に変えなくてもいい。認定登録の商品が消費者から求められるかどうか、その商品に物語性があるかどうかです。製粉工場を見ても感動はないけれど、田舎のおばあちゃんと一緒に手打ちうどんを打つとかいった物語性があれば、人はその食品に思いを寄せる。そういうモチベーションというか、仕掛けをわれわれができればいいなと思っています。
今、前橋の街中の遊園地「るなぱあく」で、手作りの「前橋ピザ」を販売しています。軽トラに本式のピザ釜を積んで、その場で生地を伸ばして焼いています。「ここに来れば、おいしい地場の粉で作ったピザが食べられる」「食べれば一日幸せになれる」。そういうことだと思うんです。
うどんや前橋ピザ、前橋ラーメン、それから県産小麦提供認定店などがある中で、消費者の反応はいかがですか?
(曽我) 食の変化は急激にはいかないですね。むしろ、私はその方がいいと思っています。急激に変化することは、急激に劣化することでもある。すべて世の中そうですが、一歩一歩積み重なったものが強いような気がする。温故知新じゃないけれど、「群馬県の粉食文化をもう一度見直そう。昔に戻ろう」ということです。
実は先日、私の友人から、「きぬの波の業務用(25kg)をほしい」と言われたんですね。榛名町の教育長をしていた友人で、昔からの趣味は山登りとうどん打ち。ある意味では、今の日本の世の中を引っ張っているのは定年後の人たち。彼らがどのような暮らしをしているかが、世の中の一番大きな要素の一つになりつつある。食もまさにそう。時間に追われませんから、本物を求める。ボランティアの大工に頼んでそば打ち道場を作ってもらっているそうです。「完成したら、招待するからね」って。そういう動きですよね。自分で打つ喜びがあり、友だちを呼んでホームパーティーをやる楽しみもある。高齢化社会も悪くないですよ。
スローフードという言葉がありますが、フードだけでなく文化そのもの、スローライフですね。スローで本物であるということですね。
(曽我) スローフードはスローライフのベースがないとあり得ません。そして、経済論理主義だけのものはなるべく排除していかないとなじまない。輸入小麦は安くて品質は安定しています。でも、スローフード、スローライフにナショナルブランドを使っていては面白くない。地域限定のものが群馬県にいっぱいあります。食だけでなくあらゆる分野にあるんじゃないでしょうか。
経営人であり、経済界で活動されながら、経済一辺倒ではない、効率一辺倒ではないことの重要性をおっしゃっていますが、曽我さんの中では両立するのでしょうか?
(曽我) 両立するかは一番厳しい課題ですが、そうでないと大企業とは差別化できないんじゃないでしょうか。もともと、製粉業というのは、限りなく1.5次産業。農業に近い、付加価値の低い、天候に左右されやすい、収益性の低い産業です。だけど、極めて大事な主食の座を占めているという使命、ミッションみたいなもの、そんなDNA≠世界中の製粉会社が持っている。特にドイツの会社は大事にしています。ドイツを訪ねたとき、製粉会社の入り口に、「この商売はもうけは少ないけれど、なくてはならない素晴らしい仕事」と書いた看板が掲げられていました。今でも、何百年も続く水車を残してある製粉会社がいっぱいあるんです。
私たちのように地方に根差している製粉会社は、そこで採れる小麦を大事に使い、本物の食品を作っていこうと思います。岩手に「南部煎餅」を作るための「南部小麦」があります。外国産の小麦でもできますけど、かみしめたときの味が違うんですね。「南部煎餅」のための南部小麦がずっと守られているのです。
 ■いい小麦を供給するために■
お米の消費拡大という動きもある中で、米と小麦、どのようにお考えですか?
(曽我) 米と小麦は共存の関係だと思います。日本人は米と小麦をうまく主食として使い分けてきた。普通は「米が表作、小麦が裏作」という表現をしますが、群馬では、「小麦が表作、米が裏作」だと私は思うんです。群馬の麦は、歴史的に非常に評価が高い。先祖の築いてきた歴史があり、群馬の気候風土が粉食文化を生み出すのに合っているということですね。
最後に食生活や農業のあり方が変っていく中で、どんな展望をお持ちですか?
(曽我) 非常に危機的な部分を感じています。高齢化社会もまんざら捨てたもんじゃないと言いましたけど、困っている点はすべて後継者対策です。特に農業の場合には後継者がいない。耕作放棄地が非常に多い。極端なことを言うと、群馬の農業を守れるのか、農業生産が未来永劫継続されるのかという問題まで言及せざるを得ない局面に来ています。私どもだけで解決できるとも思わないけど、少なくとも、うちの立場としては、群馬県産の小麦をきちんと生産してもらいたい。それを生かして、われわれも生業を続けていきたい。そのためには、いい小麦をきちんと生産して供給してもらうシステムが必要です。私たちはやる気のある農家とダイレクトに「運命共同体として一緒にやりませんか」と、アクションを起こしているところです。
WTO(世界貿易機関)農業交渉や、日豪EPA(経済連携協定)交渉をめぐって、群馬の牛乳や小麦の危機が言われています。自由と規制のバランスをどうしていくか。日本の農業は今、分岐点に来ているのではないでしょうか。でも、消費者はまだまだ危機感がないし、マスコミもそこまで思っていない。お金さえあれば何でも買えると思っている。こんな国は世界にないわけです。全世界60数億人口がいる中で、飢えに苦しんで多くの人が亡くなっています。食生活だけじゃなく、大きな流れの中で日本の農業やわれわれの生活はどうあるべきかを問われているのが今日であると思うのです。でも、分かっている人がだんだん増えていると思うし、群馬に住んで良かったという人もかなり増えている。そういうルネサンスの動きの中、われわれも一員であると感じています。
大変貴重なお話、ありがとうございました。

(聞き手 上毛新聞社広告局次長兼編集部長 吉島一江)