保守分裂の激戦となった知事選は、早くも中盤に差しかかろうとしている。政治に対する情熱や出馬の動機、活動の足跡などについて人柄を伝えるエピソードを交えて紹介し、知事を目指す主要四候補の素顔に迫る。
(1)好きな食べ物(2)群馬の好きな場所(3)人生で最も幸せを感じた瞬間(4)人生で最大のピンチ(5)尊敬する人(6)生活信条(7)愛読書(8)趣味(9)健康法(10)出身地
◎家族の「朗読会」今も 山本 龍候補(48) 無新
「見たこともないような選挙戦で群馬の選挙を変えます」 昨年七月一日にいち早く立候補を表明。館林を皮切りに一年がかりで全県を行脚し、政策を訴えながら県民の声を聞いた。「たくさんの人と触れ合った経験は宝」と真っ黒に日焼けした顔をほころばせる。
草津町の旅館に生まれたが、生後まもなく両親と親しい医師夫婦に預けられた。来院する患者たちに、一見華やかな温泉街の裏で生活に苦しむ人々がいることを知った。
中学から前橋に下宿。医学部受験に失敗した後、早稲田大に進学した。「社会の医者になろう」。大学三年のとき、小渕恵三元首相の事務所に見習いで入った。
三十五歳で県議選に出馬。小渕元首相からは「休みも金もいらない者にしか政治はできないぞ」と止められた。結果は自民党公認のベテラン現職二人を抑えてトップ当選。この瞬間、「(県議)三期で知事選に」と決めた。
子供と遊ぶのが大好きで、ボーイスカウトのリーダーになりたかった。明るい性格で、「おせっかいが短所」という。
ナホトカ号の重油流出や阪神淡路大震災の際には、ボランティアに駆け付けた。自身の集会でも会場準備や片付けに奔走してしまうため、スタッフからいさめられることもたびたびだ。
離れて暮らす長男(13)、長女(9)とテレビ電話で話すのが楽しみ。家族で一冊ずつ本を読み合う「朗読会」は今でも続けている。自他共に認める愛妻家。たとえ知事選で当選しても、人生で最も幸せを感じた瞬間は「妻と結婚したとき」。その答えはずっと変わらない。
(1)かき氷(2)高校時代に初めて友達と登った赤城山(3)妻と結婚した時(4)ピンチと感じることはあまりない(5)田中正造、大塩平八郎(6)いつも仲良くけんかしない(7)宮沢賢治(8)自転車、スキー(9)悩まないこと(10)草津町
◎父の転勤で地方知る 小寺 弘之候補(66) 無現
県政史上初の五選に向けて意欲がみなぎる。自身を野球の投手に例え、「七回表を迎えた。球数は百球を超えたが、スピードは落ちず、コントロールも定まっている」と、多選批判に対して“続投”をアピールした。
一九六八年、旧自治省から県医務課長に赴任した。「群馬の開放的な人情、自然が気に入った」と旧自治省に戻らず、県幹部として歩む道を選んだ。若くして総務部長や副知事など重要ポストを歴任、「こんなのでいいのかな」と悩んだこともあったという。
清水一郎前知事の死去を受け、九一年に副知事から出馬、初当選を果たした。だが、四期目は人事問題などをめぐり、自民党県議団と衝突。今回の知事選は自民が対抗馬を擁立して、かつてない激しい選挙戦になった。
「特定の人が県政を支配し、裏で知事を操ろうとしている」と自民の姿勢を批判。「実績を踏まえて現状に合った政策を打ち出し、責任ある県政を進めたい」と力強く抱負を語る。
政治信条は「弱い者の味方になる」こと。小学一年の時、敗戦後の上野駅地下道で同じ年ごろの戦災孤児が物ごいをしたり、金を稼ぐために靴磨きする姿に心を痛めた。転勤族だった父の仕事の関係で転校を繰り返した。地方の良さを知る一方で、地方の生活の貧しさも知り、こうした体験が政治家を志すきっかけになった。
「子どもを育てるなら群馬県」をマニフェストに掲げる。自らも四人の子供を本県で育てた。登校時の旗振り当番を引き受け、授業参観にも出席した。激しい選挙戦の中でも、孫の話題になると一転、目を細める。
(1)アジの開き、卵焼き、豆腐(2)広々としている嬬恋村や吾妻地域(3)結婚した時(4)万事休すと思ったことはない(5)西郷隆盛(6)初心忘るべからず(7)破戒、星の王子さま、坊っちゃん(8)テニス、山歩き、音楽鑑賞(9)よく眠ること(10)東京都
◎「住民のため」大切に 吉村 駿一候補(63) 無新
弁護士の仕事に就いて三十六年になる。「来る人は拒まない」をモットーに、さまざまな職業や立場の人からの相談に応じてきた。仕事量は普通の弁護士の三倍という自負がある。
六人きょうだいの長男で、父は酒造業をしていた。高校生の時、「いずれは家に帰らなくてはならない」と考え、比較的自由に仕事ができる弁護士になることを決意。中央大法学部に進み、司法試験に合格した。
消費税導入反対、ハンセン病の国家賠償訴訟、JR信越本線の存続運動など、弱い立場に苦しむ人を守る活動を続けてきた。「弁護士は世の中のことを知らないと駄目。いろいろな人に会って勉強した」。多くの人との出会いが大きな財産になった。
二月に南米のベネズエラを視察し、国民の熱気に感銘を受けた。「政権は教育や医療の改革に取り組み、国民は暮らしを良くしようという希望に燃えていた」。自身の五度目の知事選出馬に際し、「住民のための県政」を今まで以上に強く意識するようになった。
渋川高校時代の三年間はソフトテニスに明け暮れた。三年生の時に県代表としてインターハイに出場、四回戦まで勝ち進んだ。「意表を突くコースを思い切って狙う、攻撃型の後衛だった」。当時の記憶は今でも鮮明に残っている。
休日の楽しみは、還暦をきっかけに始めた農作業。自宅近くの畑でキュウリやインゲン、トマトなどを栽培している。選挙戦に入ってからも毎朝五時前に起き出し、畑の草取りに精を出している。「早起きとおいしい野菜が健康づくりの秘けつ」と笑う。
(1)刺し身、手作りの野菜(2)伊香保温泉(3)渋川高校時代にソフトテニスでインターハイ出場(4)特になし(5)ホーチミン(6)明けない夜はない。冬来たりなば春遠からじ(7)松本清張の作品(8)農作業、映画鑑賞(9)早起き(10)吉岡町
◎鍛えた俊足今も自信 大沢 正明候補(61) 自新
「大沢さんしかいない」。昨年十一月、小寺県政への反発を強める自民党県議団が対抗馬を擁立した際、決め手になったのは「実行力とまじめさ」「公平な気配り」「飾らない人柄」。県議団の総意で候補に押し上げられた。
その八カ月前。党県連幹事長時代に、懸案だった福田系と中曽根系の県議派閥を解消した。「おかしいと思っていた。党なら一本になるべきなのだが、古い人は(説得が)難しかった」と苦労を振り返る。
子供のころから飛行機が好きで、大学では航空工学を専攻、グライダー部に入った。その後、広島県の海上自衛隊幹部候補生学校に進んだのも空と海へのあこがれが一つの理由。若いころは軽飛行機やクルーザーの操縦を楽しんだ。
自衛隊では遠泳など厳しい訓練や規律正しい生活の中で「筋を通す」ことを学んだ。その後の会社経営では従業員に対して「文句は言わず、自らやる。率先垂範を心掛けた」。
三十七歳で町議に。太田市と当時の尾島町を比較し、文化面やスポーツ施設面の差を痛感。「小さくても太田に負けない町をつくりたい」と政治の道を志した。
同町の町長だった父親を尊敬する。上武道路のルート変更を陳情、情熱で町を通過させたエピソードを紹介し、「町民の生活が一変した。これが政治だと思った」。
かつて五十メートルを六・二秒で走ったスポーツマン。大学時代はラグビー部で活躍した。選挙運動でも「ラグビーのウイングで鍛えた俊足で先行している候補者を抜き去る」と体力をアピールしている。
(1)カレーライス(2)利根川(3)海上自衛隊の卒業式後に全員で学校裏の海に泳ぎ出した瞬間(4)軽飛行機を操縦していてエンジンが一瞬止まった時(5)父の大沢明治(6)平常心(7)坂の上の雲(8)庭の手入れ、読書、マリンスポーツ(9)睡眠、散歩(10)太田市(旧尾島町)