「ぐんまルネサンス」 第2部
1 萩原鐐太郎
 
1905年、碓氷社前で撮影された視察者との記念写真。中央が萩原鐐太郎(平田卓雄さん所有)
 「わが碓氷社の組織はこの一家団らんということに最も重きを置き、これを基礎として組織した」「家庭の幸福と製糸上の利益と併せ得る方法は(中略)ほかにあるまい」

 一八七八(明治十一)年、組合製糸「碓氷社」を地元有力者とともに設立した碓氷郡東上磯部村(現安中市東上磯部)の萩原鐐太郎は、明治末から大正初めにかけての社報にこう書いた。

 当時の一般の製糸会社では、子女が親元を遠く離れ、寄宿舎に住み込みで働いた。ところが碓氷社は、加盟農家が家族一緒に暮らし、養蚕を行い、夜間や農業の合間に座繰り製糸を行うという方法をとった。農家の団らんの場である土間や縁側が碓氷社にとっての工場だったのだ。
 
これが何をもたらしたのか。

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 碓氷社に先立つ七二(同五)年、山一つ越えた富岡町(現富岡市富岡)にフランスの技術支援で巨大なれんが造りの官営富岡製糸場が建てられた。三百釜の自動繰糸機が、絶え間なく生糸を引いた。人々は突然の“産業革命”に驚き、富岡をまねた器械製糸場を全国に競って建てた。

 これに対して碓氷社は、在来技術である手回しの「座繰り」を改良して器械製糸に対抗。百三戸で立ち上げた組合を、十都県一万八千戸にまで拡大し、全国一の組織に発展させた。

 その原動力となったのが、鐐太郎の「農民が家族一緒に働く幸せを守りたい」という農民を思う精神だった。
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 萩原家は江戸時代、代々名主を務めた家柄。生家には、かやぶき屋根の付いた門や二階建て母屋、庭の真ん中に立つ松の木など、鐐太郎が生まれる前からの屋敷構えが残っている。

 その生家では現在、ひ孫の延衛さん(73)家族が暮らしている。延衛さんが子供のころ、家には使用人がいたが、延衛さんは庭や路地の掃除、山でのまき集めなど、近所のどの家の子供よりも厳しく手伝いを求められて育った。

 「友だちが楽しそうに遊んでいるのを山から見て、『なんで僕だけ?』と泣いたこともあった。『働かざる者食うべからず』『勤労をいやしんではいけない』という鐐太郎の精神を教え込まれた」。延衛さんは振り返る。

 庭の一角には、鐐太郎が残した膨大な古文書を保管する「萩原家古文書館」が建つ。経済、算術、理化学、法学、歴史、修身などさまざまな本や資料が書棚を埋めている。鐐太郎は自身の教育を「寺子屋教育だけ」としていたが、独学で専門書を読み、見聞を広めた。中でも福沢諭吉の「学問のすゝめ」を愛読した。

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 「国民の教育水準を上げ、日本を精神的に独立した国へ導く」とする諭吉の主張と、「農民本位」の鐐太郎の経営。両者には「庶民(農民)が国や会社の基礎を支える」という共通点がある。

 「鐐太郎は農民の幸せを第一に願い、諭吉の思想を上州の地に合わせて実践した」。元県立歴史博物館長の森田秀策さん(75)=高崎市下豊岡町=はそう解説する。

 碓氷社の利益の大半は、加盟農家へ還元された。鐐太郎は晩年、家族に語っている。「俺は今井(片倉工業の今井五介)や原(生糸商の原善三郎)のようになろうと思えばいつでもなれた。しかし農民のために組合製糸をやったのだ」。戦前までの萩原家の土地は三f。それは鐐太郎の生涯を通して変わらなかった。

(斉藤洋一)

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 養蚕、製糸、織物で栄えた群馬はそれぞれの分野で多くの傑出した人物を生んでいる。第2部では、近代日本の礎を築いた絹の国の先人たちの仕事、その精神を見つめ直し、新しい光を当てていく。

萩原鐐太郎◎ 1843(天保14)年碓氷郡東上磯部村(現安中市東上磯部)生まれ。15歳で名主の家督を相続。県第21大区副区長、熊谷県第1大学区19番中学校事務取扱、碓氷郡長、県会議員(4期)、衆院議員(1期)などを歴任。
 78(明治11)年に同郷の繭糸商の萩原音吉らと組合製糸「碓氷座繰精糸社(後の碓氷社)」を設立。鐐太郎は「不ふ欺ぎ(ふぎ)の良糸を製造する」など同社の精神を明文化した社則を起草した。85(同18)年に全国的なデフレの影響で同社が多額の負債を抱えると、周囲の要請を受けて社長に就任。誠実かつ養蚕農家本位の経営で難局を乗り切り、碓氷社を全国一の組合製糸へ発展させた。1912(同45)年に健康上の理由で社長を辞任。16(大正5)年に逝去。
 (1月7日掲載)