| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 2 速水 堅曹 | ||||||||
日記をひもといて一八七〇(明治三)年の足跡をたどる。「是ヨリ日々糸ノ試験ニ関係シ、ミウラー(ミューラー)ニ欧 州製糸ノ実際ヲ問フ故、宅ニ帰スル克ハサル多事ナリ」(七月十七日)。「民部省ヨリノ達ニ拠リ富岡ニ行、(中略)尾高 (惇忠)庶務・小佑、外人ブリュナ氏(ポール・ブリュナ)ニ面談、新建製糸場ノ利害ヲ論ス」(十月十九日)とある。備 忘録のような簡潔な文章だが、日記からは器械製糸の先駆者としての情熱がにじむ。 ◇ ◇ 六七年のこと。財政が悪化した前橋藩は、横浜で生糸がばく大な利益を上げていることに着目。藩内の生糸を独占販売す ることで、財政再建を考えた。 速水は藩命を受け、生糸専売所「敷島屋庄三郎商店」を横浜に開店。翌年にはスイス人技師ミューラーを前橋に招き、日 本初の器械製糸所を設立した。官営富岡製糸場が操業を開始する二年四カ月前のことだった。 前橋藩の下級武士だった速水は、廃藩置県で藩が消滅すると一躍、時代の寵児(ちょうじ)に駆け上った。改良座繰りか ら海外の生糸相場、生糸輸出までに精通した速水には、全国から指導を求める声が殺到した。 ◇ ◇ 七八年、大蔵省官僚としてフランス博覧会に出張中の松方正義(のちに首相)が、富岡製生糸の品質が落ちたとの評判を 聞いた。製糸場は初代所長、尾高の元で優良な生糸を生産したが、後任が利益を最優先させたため、工女たちに不満がうっ せき。それは品質にはね返った。 政府は所長を更迭すると、後任に速水を据えた。七九年四月、着任した速水は強い決意を示した。 「政府は製糸場の改良を私に一任した。私が来た以上は、すべて私が教授する。指揮に納得しない者は解雇する。いつで も申し出るように」。そう言い放つとさっそく改革に乗り出した。 だが、第一に取り組んだのは製糸技術の伝授ではなく、工女の教育だった。教えたのは、人を指導する際の心得から、子 弟教育、家庭円満の方法、日欧の習慣の違い、蓄財方法にまで及んだ。効果は工女の仕事ぶりに表れた。半年もたたないう ちに、生糸はフランスでの評判を取り戻した。 速水は二度目の所長に返り咲いた八五年から、富岡製糸場の本格的な経営改革に着手した。繭を購入する上で障害となっ ていた繰越金補てん問題を解決。アメリカ向け輸出の拡大を推進して、政府の“荷物”だった製糸所の黒字化を果たした。 二度の入札を経て、製糸場は九三年、三井家へ払い下げられた。速水は一貫して製糸場の民営化を主張してきたが、その 難しさをだれより知っていたのも速水だった。 ◇ ◇ こんな歌が残っている。 思ひきや手植えの菊もこの頃の雨と風とにあはむものとは 製糸場を手植えの菊になぞらえ、製糸場の行く末を気遣った。 子孫の速水美智子さん(51)=茨城県守谷市=は「堅曹は器械製糸のスペシャリストであったが、やみくもに器械製糸を 広めようとしていたのではなかった。いかに良い生糸を輸出し、日本を自立させるかを考えていた」と指摘する。 要職を歴任した速水は、全国各地の蚕糸業を視察して助言した。九州の製糸業者を前に行った講演では、演説をこう締め くくった。 「今日仏国を富国強兵の地位に達せしものは、有力なる政治家にもあらず武勇の軍人にもあらず、却りて其れ製糸家にて ありし(中略)諸君乞ふ国のために自重せよ」 速水を貫いていたのは、日本の近代化は製糸業が支えているという矜持(きょうじ)と使命感だった。(小田川浩道) ◇ ◇ ◎速水堅曹◎ 1839(天保10)年、速水政信の三男として川越に生まれる。藩主松平直克が川越から前橋に移城後、藩に 仕えた。 69(明治2)年、藩営生糸直売所の設立に奔走。翌年には藩の重臣、深沢雄象とともに日本初の器械製糸所「藩営前橋製 糸所」を設立。73年、福島県に二本松製糸所を設立。76年には米フィラデルフィア万国博覧会の審査委員を務めた。 経営手腕を評価され、赤字だった官営富岡製糸場の第3代所長(79年3月から80年11月)と第5代所長(85年2月から93 年10月)に就任。経営改革を進めて、黒字化を果たした。途中、製糸場を速水に貸与する案が政府内で浮上したため、いっ たん辞任。生糸の輸出会社「同伸会社」頭取に就任した。1913(大正2)年、74歳で逝去。 (1月14日掲載) |
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