「ぐんまルネサンス」 第2部
5 尾高 惇忠
 
尾高惇忠の足跡を記した「藍香翁」に掲載された写真
一八七六(明治九)年十一月。官営富岡製糸場の創業から所長を務めてきた尾高惇忠が辞職した。国富のために取った行動は最後まで理解されることなく、志半ばでの退路だった。

 のちに富岡製糸場で二度の所長に就く速水堅曹(一八三九−一九一三年)は自叙伝「六十五年記」の中で、尾高の失職についてふれている。

 〈富岡製糸所は初め尾高惇忠が主任たりしが何分功を奏するあたわず、明治九年秋蚕に熱心のために本業の疎にならむことを恐れ、政府は尾高を免ぜられた〉

 速水は、秋蚕奨励が失職に至る一つの理由とみている。尾高は辞職前まで明治初期に発見された秋蚕に目を付け、普及に力を入れていた。当時主流の春蚕だけでは繭の増産を図れないと考え、秋蚕を説く「蚕桑長策」という書物を出版するほど情熱を傾けていた。

 こうした行動が政府の目には好ましくないと映ったのだろう。政府の承認を得ず、禁止されている秋蚕の普及が役人としての仕事の範ちゅうを超えると判断された。

 尾高は秋蚕奨励が自身の進退にかかわることを承知していた。生地である武蔵国榛沢(はんざわ)郡(現埼玉県深谷市)の農家に「私が諸君の要望をいれて、秋蚕種の製造に協力すれば、私は官職を免ぜられるであろう。しかし、諸君の熱意に対してそれもやむを得ない」と語っている。

 尾高の妹の夫、渋沢栄一(一八四〇−一九三一年)の研究を進める竜門社深谷支部幹事で、深谷市文化財保護審議会委員の荻野勝正さん(57)=同市上敷免(じょうしきめん)=は指摘する。

 「『すべては日本のため』と思い、全身全霊をかけて製糸場を経営していた。国を憂い、富ますため、国のおきてを破ってまでやらなければいけないと考えたのではないか」

 尾高は思いつきで行動するタイプではない。経営者としての手腕は確かなものだった。契約満了を迎えた首長のポール・ブリュナら外国人が富岡製糸場を去った後、日本人のみによる運営で経営を立て直している。

 ブリュナ離任時の一八七五年度までに同工場が抱えていた損益総額は二十万円を超えていたとされる。これが翌年度は十万円の利益を生んだ。

 当時欧州の繭生産量は例年の三分の一に落ち込んでいた。対する国内はかつてない豊作を迎え、良質な繭が安価で手に入る状況。尾高は生糸相場がいずれ高騰することを予測していた。従来より二倍の量を買い込んで良質繭だけで製糸を行い、残った繭は価格が上がるのを待ち売り払った。

 操業以来の黒字転換は派生的な変化をもたらした。同工場の成功を見習い、全国各地で製糸工場を起こすものが次々と現れた。産業界全体に多大な影響を与えた。のちに内務卿に就く松方正義(一八三五−一九二四)が「君の面も立派となりしが、予の器量も為に上れり」とほめたたえたほどである。

 富岡製糸場の所長室に以前、尾高直筆の「至誠如神」という書が掲げられていた。真心を尽くすことの大切さを表す言葉だ。私利私欲に走らず、何事にも親身に取り組む人柄がにじむ。荻野さんは「尾高の考えを表している。真心があったからこそ所長として大事業ができた。オーバーかもしれないが、その精神は建物とともに脈々と受け継がれた」と語る。

 時を経た現在、養蚕の掃き立ては多い時に年六回を数える。離任の理由の一つとなった秋蚕は広がり、季節ごとの掃き立てにつながった。尾高の先見は間違っていなかった。もしこの光景を目にしたならば、胸中に浮かぶものは何だろうか。

 富岡製糸場の敷地選定から携わり、「国のため」に行動し続けた熱き精神。日本近代化を支えた大工場の初代所長というだけでなく、絹産業の根底をなす養蚕普及の“影の功労者”である一面も忘れてはいけない。

(千明良孝)

尾高 惇忠 1830(天保1)年、武蔵国榛沢郡下手計(しもてばか)村(現埼玉県深谷市)に生まれる。家業は主に米穀、塩、油など日用品や藍玉の加工販売を行っており、15歳ぐらいから手伝うようになった。47年ごろに尾高塾を開き、7歳だった渋沢栄一に論語を教えた。

 30代半ばには水戸学の影響を受けて尊王攘夷(じょうい)に傾倒した時期もあったが、渋沢らが幕府に仕えるようになると一転して幕府とともに行動する佐幕派として活動。彰義隊や振武軍の結成にかかわった。

 富岡製糸所を退いた後、渋沢が関係する数多くの民間事業に参加。東京府瓦斯(ガス)局勤務や東京養育院事務取締、蚕種会議局会頭などに就き、77(明治10)年には国立第一銀行に入った。1901(同34)年、70歳で逝去。

 (2月11日掲載)