「ぐんまルネサンス」 第2部
8 深沢 雄象
 
日本初の器械製糸を導入した前橋藩の深沢雄象
 〈前略 今般ハイヨイヨ尼●頼(ニコライ)神父御出張ニテ、今朝洗礼無事相済ミ、大イニ安心仕マツリ候。(中略)今朝ヨリ荷物ヲ替エテ、始メテ愉快ニ入ラントスル心地ニ御座候〉

前橋ハリストス正教会(前橋市千代田町)に、日本初の器械製糸所を設立した前橋藩少参事、深沢雄象の手紙が飾られている。手紙は一八七九(明治十二)年四月十七日付。勢多郡水沼村(現桐生市黒保根町)で水沼製糸所を経営する星野長太郎(一八四五−一九〇八年)に受洗の喜びを伝えている。

 雄象はかつて藩大目付として、キリスト教を厳しく取り締まった。そんな人物がなぜキリスト教に救いを求めたのだろうか−。

 藩の反対を押し切って建設した器械製糸所だったが、廃藩置県のため操業わずか二年で雄象の手を離れてしまった。それをきっかけに一切の仕事を断ると、家に閉じこもった。一年もの間、寝てばかりいたというが、無為に過ごしたのではなかった。ずっと士族授産の道を考え続けていた。

 当時の士族は旧禄奉還で手に入れた現金や公債が懐にあふれていた。商売に乗り出す者もいたが、武士の商法と言われるように、経営はうまくいかず、財産を散逸する者が多かった。

 上州は座繰りの本場。一部で粗製乱造が問題になっていたとはいえ、生糸そのものはまだ売れた。士族授産には製糸業しかないとの結論に達すると、早速動いた。土地を探して研業社(関根製糸所)を設立。七八年には星野らと改良座繰り結社「精糸原社」を結成。共同揚げ返しで品質を統一し、米国へ直輸出した。

 雄象は清廉潔白な武士道精神で製糸業に取り組んだ。目先の利益を追う商人とは一線を画し、生糸改良による国益増進を目指した。

 生糸商は、快く思わなかった。有力な生糸問屋が中心となって、直輸出していた製糸業者に圧力をかけた。県内の生糸商も動きに同調するなど、さまざまな形で立ちはだかった。

 ロシアの宣教師ニコライ(一八三六−一九一二年)が前橋にやってきたのは、製糸業に乗り出した士族たちが、生糸商の抵抗に苦しんでいた時だった。雄象も商人たちとの競争に心が傷ついていた。

 返答次第では一刀両断にする考えで、雄象はニコライを訪ねた。が、ニコライはそんな雄象を包み込んだ。間もなく心酔するようになると、受洗を決めた。

 その後は、伝習生や工女らにキリスト教を説き続けた。後に娘婿になった利重は強く反発したが、やがて洗礼を受け、事業を継いだ。利重は前橋英和女学校(現・共愛学園高校)の創設に協力、本県女子教育の礎を築いた。

 〈一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ〉

 長女の孝こう(こう)は聖書の言葉を引用して、雄象の功績を「一粒の麦」に例えた。器械製糸の種は伝習生によって運ばれ、水沼製糸や福島県の二本松製糸、九州の熊本製糸などに結実した。キリスト教も同じように伝習生らに運ばれ、各地に根を下ろした。

 ひ孫の深沢忍さん(83)=前橋市関根町=の手元には、ボロボロになった雄象の聖書が残っている。忍さんは受け継いだキリスト教信仰をこう語る。

 「百年前、先祖たちが今とは比べようもない環境の中で、正教徒として生きようと祈り、努力した。その様子を知るにつけ、自分の信仰の頼りなさ、生活の不確かさを恥じるばかりです」

 正教会には現在も二十八家族が集う。「糸の町」前橋を象徴する製糸業の煙突は消えてしまったが、士族を中心に広がったキリスト教は世代を超え、今も受け継がれている。

※●はしんにゅうに古

(小田川浩道)


◎深沢 雄象 1833(天保4)年、深沢騰九郎の長男として川越(埼玉県)に生まれる。67年、前橋城の完成に伴い、藩主の松平直克とともに前橋に移住。大監察、大目付、少参事など要職を歴任した。70年、スイス人のミューラーを招いて、日本初の藩営器械製糸所を設立。実務には後に富岡製糸所長などを歴任した速水堅曹が当たった。廃藩置県で製糸所は小野組に払い下げられ、後に前橋の生糸商、勝山宗三郎の手に渡った。75年、研業社(関根製糸所)を設立。78年、精糸原社を結成。しかし、やがて借入金の返済ができなくなり、娘婿の利重に経営を引き渡した。 79年にギリシャ正教の洗礼を受け、伝道に努めた。2年後、県内の信者は540人(前橋278人)。1907年、74歳で逝去。。

 (3月4日掲載)