「ぐんまルネサンス」 第2部
9 楫取 素彦
 
生糸の直輸出のために渡米した新井領一郎が、手持ちの写真をもとにニューヨークの画家に描かせた楫取素彦の肖像画=県立歴史博物館所蔵


 一八七七(明治十)年十月二十日、官営模範工場として設立された旧新町屑糸(くずいと)紡績所(高崎市新町)で、開業式が行われた。大久保利通内務卿や大隈重信大蔵卿、伊藤博文工部卿ら明治政府の最高幹部が前日夜から現地入りし、新工場の完成を祝う式に臨んだ。

 大久保内務卿の祝辞などに続きあいさつに立った群馬県令、楫取素彦は、これまで廃棄してきた屑糸を有益物にして輸出品とする技術進歩を「人智の開明此に至る」と胸を張り、こう加えた。

 〈追歳殖産の政業りて土地人民の幸福も亦一端に止らざるを喜び、殖産の基礎吾管内に端緒を啓き、推して全国に及び其盛大無頼に至らんを翼望する也〉(群馬県蚕糸業史上巻)

 明治政府は国を発展させるため、殖産興業に力を入れた。当時、外国貿易の主役は生糸。養蚕や製糸業が盛んな本県は国内随一の生糸供給地だった。県令として行政サイドから本県蚕糸業を支えた楫取の言葉には、地方から日本の近代化をリードしようという意気込みがひしひしと伝わる。

 楫取は、下村善太郎(一八二七−九三年)や速水堅曹(一八三九−一九一三年)、星野長太郎(一八四五−一九〇八年)ら蚕糸業の関係者と情報交換し、県内各地を回って産業振興に努めた。星野が旧水沼村(桐生市黒保根町水沼)に設立した水沼製糸場を訪れた際には、七言絶句の漢詩を贈り励ましている。

 星野は一八七六(明治九)年、生糸の直輸出を企て、弟の新井領一郎(一八五五−一九三九年)を米国に派遣する。この計画について星野から相談を受けた楫取は大いに賛同し、私財を投じて費用を援助したという。

 出発前に新井が楫取夫妻を訪ねた時のことが、新井の孫で元駐日米国大使夫人、ハル・ライシャワーさん(一九一五−九八年)の著書「絹と武士」に詳しく描かれている。

 吉田松陰の妹の楫取夫人が、松陰の形見の品という短刀を新井に託す。幕末、松陰は米国艦隊に乗り込もうとして果たせず、後に処刑された。夫人は新井に訴えた。

 〈この品には兄の魂がこめられているのです、その魂は、兄の夢であった太平洋を越えることによってのみ、安らかに眠ることができるのです〉

 楫取夫妻が精神面でも新井の支えになった逸話だ。新井は楫取の写真を携えて渡米し、ニューヨークでそれをもとに肖像画を描かせ、楫取に贈った。現在、その肖像画は県立歴史博物館に所蔵されている。

 旧島村(伊勢崎市境島村)の田島弥平(一八二二−九八年)らが蚕種を直輸出する計画も、楫取は応援した。七九(明治十二)年十二月、東京・新橋で田島らの送別会を開いたとの記述が、速水堅曹履歴抜萃にある。

 八三(同十六)年、楫取が転任するとの知らせが伝わると、県民から留任運動が起こった。翌年群馬を去るときには、数千人が沿道に出て別れを惜しんだという。県庁隣の高浜公園には、功徳碑が建てられている。

 楫取と縁が深い清光寺の住職夫人、高橋辰美さん(54)=前橋市大手町=は、楫取のひ孫に当たる松若さん(故人)と交流があった。松若さんが前橋を訪れた際、「しかし、群馬県民は偉いですね。あれだけ素彦がいろんなことをやっても、黙って好きなようにさせたのだから」と語ったのを印象深く覚えている。

 名県令として親しまれた楫取だが、絹関連産業の衰退と連動するかのように、その名は県民に忘れられようとしている。高橋さんはこうした風潮を残念がり、「功徳碑に書かれていることを県民全員に知ってもらいたい」と願う。

 県立歴史博物館の手島仁専門員は「学校や鉄道の整備でも功績は大きい。大局的見地から群馬のことを考えた人物として、顕彰しなおす必要がある」と指摘する。絹産業遺産が脚光を浴びる今こそ、楫取研究を進める好機かもしれない。


(小渕紀久男)



◎楫取 素彦  1829(文政12)年、長州藩医・松島瑞蟠の二男として萩(山口県)に生まれる。藩校明倫館の儒者、小田村吉平の養子となり、67(慶応3)年に楫取素彦に改名。吉田松陰の妹を妻とした。
 維新後の74(明治7)年、群馬の大部分を管轄する熊谷県権令となり、76(同9)年に現在の県域とほぼ同じ第2次群馬県成立とともに初代県令に就任。84年(同17)年に元老院議官として転出するまで、草創期の県政に指導力を発揮した。
 教育充実に力を注ぎ、就学率を大幅に向上させるなど本県を全国屈指の教育県にした。また、養蚕・製糸業などの産業振興に努めた。多胡碑をはじめとする文化財の保存にも尽力しており、漢詩や書にも優れ多くの作品を残した。
 1912(大正元)年、三田尻(山口県防府市)で死去。



 (3月11日掲載)