「ぐんまルネサンス」 第2部
11 星野長太郎
 
繰り糸器械32台を備えた水沼製糸所の工場外観。製糸改良にかける星野の熱意が、当時としては破天荒な私設の器械製糸所を実現した

一八七二(明治五)年九月から翌年の一月にかけて、水沼村(現桐生市黒保根町水沼)の豪農、星野長太郎は、自ら前橋藩営の製糸所で製糸の伝習を受けた。後に官営富岡製糸場の所長となる速水堅曹(一八三九ー一九一三年)に学び、翌月には妻の香久(かく)と工女三人にも伝習させた。

 器械製糸「水沼製糸所」を建設する準備のためだった。米麦だけでは村人が生計を立てられなかった水沼村で、「桑樹に適し、渓水能(よ)く製糸に適し」た土地柄を生かす養蚕製糸の振興に目を向けたのだ。

 前橋製糸所の責任者、深沢雄象(一八三三ー一九〇七年)の長女、孝(こう)は、この時の星野について「器械糸繰り事始め」でこう書いた。

 〈星野さんは夫婦で大渡に伝習に来られ直(す)ぐに帰って私財を投じて水沼に製糸所を興された。(中略)事業に対しての態度はほんとうの捨て身でした〉

 水沼製糸所は七三年十一月に着工、翌年二月に落成した。水車を動力にした繰り糸器械三十二台を備え、規模は官営富岡製糸場の十分の一、藩営前橋製糸所の三分の一だったが、個人が設立した施設としては異例の先駆的役割を担うことになる。

 草創期、女性工員の確保に苦心した。若松(福島県)まで人材を求めたが、「生き血を絞られる」などという妄言もあって募集に応じる人は少なかった。

 県や政府の手厚い保護を受け、翌年にはロンドンとリヨンで生糸を試売。リヨンでは、当時の最高級品だったフランス糸には及ばないが、イタリア糸に匹敵する評価を得た。

 しかし実際の経営は設立当初から利益を見込めない状況だった。にもかかわらず、田畑を抵当に入れ、縁者の反対を押して事業を続けた。「国家や郷土のために行うことは正しい」と考える星野の性格がそうさせた。

 経営立て直しのため、星野は思い切った冒険に踏み切る。横浜の外商らの手を経ずに同製糸所の良質生糸を直輸出するため、一八七六年、実弟の新井領一郎(一八五五ー一九三九年)を米国に渡らせたのだ。弟は、良質の生糸を求めている米国の市場情報を兄にもたらした。

 〈生糸は粗製乱造のため、信を海外に失うと聞き、小は地方の経済を図り、大は国家の損失を思い、(中略)蚕糸改良、殖産興業に一身を委ね身命を賭して之が成功を尽せんと決心せり〉

 経営は厳しいのに、日本生糸に対する信用を取り戻そうと良質の生糸づくりにまい進していた星野の覚悟を「星野長太郎事蹟」は生々しく伝えている。

 このころ、星野は輸出量の拡大を目指して座繰り糸の改良にも関心を示した。改良座繰り結社「亙瀬会舎」など多くの組織づくりを指導している。

 「星野は経営という概念を持ち合わせていないが、生糸改良への先進的な取り組みに迷いはなかった。もうけでなく、ばか正直に地域のためになにができるかだけが行動を支えていた」

 黒保根村史の編さんに携わった国文学研究資料館の名誉教授、丑木幸男さん(63)?高崎市中尾町?は星野の人物像に魅力を感じてきた。

 星野、新井の兄弟を地元で研究する川池三男さん(75)=桐生市黒保根町上田沢=は「水沼製糸所は日本生糸の信用を背負って運営された。日本全国から多くの人を受け入れ、器械製糸を学ばせていた功績も大きい」と誇らしげに話す。

 本県を代表する人物が良質の生糸づくり、直輸出に集う中、江戸時代からの名門の当主、星野は県内全域を束ねる組織のキーパーソンだった。

(山脇孝雄)





◎星野長太郎  星野七郎右衛門(後の弥平)の二男として1845(弘化2)年、水沼村(現桐生市黒保根町)に生まれる。幼くして亡くなった長男に代わり江戸時代から名主を務めた豪農の星野家を継ぐ。10代続いた江戸時代からの七郎右衛門を襲名せず、幼名で生涯を通した。器械製糸所の設立の他に、改良座繰り糸の振興に努めた。亙瀬会舎や前橋、沼田、大間々などの組織を統合した精糸原社、貿易商社の同伸会社、荷為替金の貸与などを行う上毛繭糸改良会社の設立にも深く関与した。良質の生糸生産と直輸出のために当時の養蚕製糸の指導者と広く交流している。1904年4月に衆院議員に当選。08年3月に退任、その年の11月に64歳で死去。東京工業大学名誉教授で、磁気テープを発明したト(やすし)は孫にあたる。




 (3月25日掲載)