| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 13 下村 善太郎 |
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事業に失敗し裸一貫同然で旅立った時の財産は六両余り。それが一万両に膨れ上がっていた。生来の商才を発揮しての“凱旋(がいせん)”。後に初代前橋市長に上り詰めた人物は、どうやって巨万の富を築いたのか。 善太郎一家が最初に向かった八王子は生糸絹織物業が盛んなことで知られた。そこで成功していた妻・せえの叔父にあたる現富士見村出身の糸繭商、糸屋源兵衛を頼った。 善太郎は製糸の際にできる屑(くず)糸の一種で太織りの原料となる熨し斗(のし)糸買いを始めた。手元にわずかな資金しか残っていなかったため、妻が持参したつむぎなどを売って三両を貸してもらい資本にした。 善太郎が亡くなった七年後の一九〇〇(明治三十三)年、上州新報に連載された「故下村善太郎翁と未亡人」の中で、せえは夫の仕事ぶりをこう振り返っている。 〈毎日弁当を背負って外商いに出掛けましても、慥(たし)かに二百のお銭が儲(もう)かったと思う迄は八つ(午後二時)に成っても弁当を遣わなかったそうであります〉 まさに東奔西走。もうけをすべて資本につぎ込み、生活費は妻の働きで補った。熨斗糸買いが軌道に乗ると、数年後には木綿や絹織物の売買を開始。さらに武州などから繭を買い集め、糸をひかせて利益を上げた。 ある程度成果が出てきた時期に追い風となったのが、一八五九(安政六)年の横浜開港だった。商機とみた善太郎は、横浜に出店していた現嬬恋村出身の中居屋重兵衛(一八二〇−六一年)のもとに出向き、買い値の倍近い値段で生糸を売り続け、生糸荷主として大富豪へと駆け上がった。 事業に行き詰まり、飛び込んだ世界。中途半端な気持ちで働けば、路頭に迷う可能性もあった。県史編さん専門委員長を務めた郷土史家の故萩原進さんは、善太郎親子を紹介した著書「その人その人生」で善太郎の実像をこうとらえる。 〈順風満帆ではなく、一時は破産したこともあったが、忽(たちま)ち再起するというたくましい精神力を持っていた〉 前橋に戻っても蚕業への情熱は冷めなかった。七六(明治九)年に渋沢栄一(一八四〇−一九三一年)らと蚕種を海外輸出し、七八年には生糸の品質を厳格にする生糸改所を共同建設、同時期には立川町に製糸工場の昇立社を建てた。 生糸商としての成功とともに善太郎の足跡で特筆されるのは、増やした財産を惜しみなく「県都前橋」建設につぎ込んだことだ。県庁誘致運動に始まり、臨江閣建設への協力、前橋公園の設置…。市を象徴する多くの場所、物の誕生に深くかかわった。 「生命を受けた前橋に強い愛着、生きがいを感じ、ひたすら前橋のためを考えた」。善太郎のひ孫の弁護士、下村善之助さん(69)=同市紅雲町=はそう語る。 善太郎が亡くなり、紅雲町の龍海院近くで市葬が行われた一八九三(同二十六)年六月八日。市内の学校は参列のため休みとなり、沿道は見送りの人たちであふれかえった。 上州新報の連載で、善太郎の長男・善右衛門が父親の口癖を紹介している。 〈只(た)だ前橋が盛んに成りさえすれば、夫(そ)れで乃公(おれ)の宿望は達したのであるから、其の他には更に望みがない〉 (千明良孝) ◎下村 善太郎 1827(文政10)年、前橋本町の小間物屋「三好善(みよぜん)」に生まれる。長身のうえに腕白で利発、商才に長けていたという。16歳の時に一歳下のせえと結婚して家業を継いだ。 八王子で生糸取引を行って成功を収めた後に前橋へ帰郷。73(明治6)年、町内の有志から資金を集めて桃井小学校を新築。76(同9)年には県庁の前橋誘致運動の先頭に立って行動した。84(同17)年、臨江閣建設のため、有志から拠金をまとめ、自らも寄付した。 89(同22)年に前橋町の議員となった後、92(同25)年の市制施行に伴い初代市長に就任した。翌年5月、横浜に向かう途中の東京で容体が急変し現地で入院。市長辞職の手続きを済ませた後の6月4日に66歳で死去した。市長在任期間は約1年1カ月だった。 (5月6日掲載) |
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