「ぐんまルネサンス」 第2部
14 吉田幸兵衛
 
金融制度調査のため渡米した伊藤博文(前列中央)ら調査団一行。後列左から4人目が幸兵衛(吉村屋幸兵衛関係書簡復刻版から

 成立したばかりの明治政府で大蔵少輔に就任した伊藤博文(一八四一−一九〇九年)らは一八七〇(明治三)年十一月、金融制度を調査するため渡米した。その出発前に撮影された調査団一行の写真に、新川村(現桐生市新里町新川)出身の生糸売込商、吉田幸兵衛が映っている。

 渡米は幸兵衛が横浜に「吉村屋」を開いて八年後のこと。横浜通商為替会社頭取として、伊藤の渡米に同行する「御用商人」に上りつめていた。
 
 ◇  ◇  
 
新川村の吉田家は質屋や酒屋などを営む富農だった。幸兵衛は分家筋にあたり、父の和五郎(?−一八八九年)が現みどり市大間々町に質店を開業。十代後半の幸兵衛は父の下で繭の販売や賃挽きに従事していた。
 
鎖国政策が崩れた一八五九(安政六)年、幸兵衛は大きな転機を得た。同郷の先輩から「生糸が横浜で売れる」と聞き、糸繭商から転身。開港したばかりの横浜で、生糸の輸出を外国商館と取引する生糸売込商として歩み始めた。

 二十六歳だった六二(文久二)年に「吉村屋」を横浜弁天通に開店。二年後に生糸売込商が仲間組合を結成、六人の総代の一人に選ばれた。総代には現嬬恋村出身の中居屋重兵衛(一八二〇−六一年)も名前を連ねている。

 創業時代は産地で直接仕入れた生糸を横浜で売却、生糸価格差を吸収して大店へと成長した。購入資金は和五郎や本家から五千両近く出資され、群馬の複数の商人も千三百両を融資。地元との深いつながりが吉村屋の発展を支えた。

 買い取り方式は極めて投機的な側面を持っており、吉村屋は維新間近の慶応年間(六五−六七年)に委託販売へと経営を刷新。多くの売込商が没落する中、七九(明治十二)年まで大店を維持した。

 番頭が明治元年に大間々へ送った書簡に「損徳は荷主衆之持前にて、売込屋は口銭取候得は、外に掛念も無之」とあり、生糸価格の変動は荷主に帰せられ、経営の基盤は口銭(手数料)収入だったことが読み取れる。

 明治元年の売上額は百万両を超え、利益も数万両に上る。幸兵衛は日本でも指折りの商人として君臨した。父への手紙に「一家弐百両にて買取置申候」と、大金で横浜に隠居部屋を確保したことを告げている。

 明治政府の経済政策に積極的にかかわるようになるのもこのころから。政府は同年の暮れ、幸兵衛の経営する吉村屋に洋銀と政府の発行した紙幣「太政官札」の買い付けを命じている。貿易の推進と太政官札の信用力アップが狙いだった。

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 維新前後の横浜は、日本人が西洋の文化に直接触れることができる場所だった。横浜への移住者が数人いた新川村には、西洋の文物がストレートに入った。

 渡米した際には、みやげ物のランプやガラス食器を持ち帰っている。村民が洋傘や洗濯せっけんを求める手紙も残っている。吉村屋は西洋文化を古里に紹介する拠点でもあった。

 横浜の生糸売込商の大店は、横浜の道路や橋の改修などのインフラ整備に資金を提供した。初期横浜のまちづくりのスポンサーとしての役割を担っている。

 吉村屋を研究する横浜開港資料館の西川武臣調査研究員(52)は「家を継ぐ立場の長男ながら、横浜に出てくる進取の気性が際立つ。時流を見抜く先見性にも優れ、日本の生糸貿易の基礎を築いた。横浜にとって大恩人」と幸兵衛の人物像の一端を紹介する。
(山脇孝雄)

◇吉田幸兵衛 1836(天保7)年、勢多郡新川村(現桐生市新里町新川)に生まれる。横浜開港前から外国商館と取引し、62(文久2)年に横浜弁天通に「吉村屋」を開く。

 明治初年には亀屋、野沢屋と肩を並べる大貿易商に成長している。閉店の79(明治12)年まで、横浜生糸売込商の中で地位を上昇させていった。

 明治政府とのつながりを築き、金融政策とも密接な関係をもった。
 
79年に店の経営権を譲渡して隠居生活に入り、1907(同40)年10月4日死去。
 
吉村屋と父の経営する大間々町の質店と交換した書簡は、維新前後の横浜を知りうる貴重な資料となっている。93(平成5)年から新里村長を務め、幸兵衛の業績を顕彰していた故吉田宰治さんは新川本家の19代目当主にあたる。
(5月13日掲載)