「ぐんまルネサンス」 第2部
16 茂木惣兵衛
 
茂木惣兵衛
 三月下旬、JR湘南新宿ラインが熱海まで延長されるのを記念して「ミス熱海梅の女王」と「ミス熱海梅娘」の観光キャラバンが高崎駅で熱海梅園などをPRした。本県での宣伝活動は初めてという。梅の観光グッズが人気を呼ぶ中、名園として知られる梅園の開設者のことが話題に上ることはない。

 熱海梅園は高崎出身の横浜生糸商、茂木惣兵衛の出資により一八八六(明治十九)年に造成された。病気療養者の保養のためで、後に皇室へ献上後、熱海市に無償譲渡される。惣兵衛は生糸を集荷して外国人貿易商に売り、手数料などで富を築いた。人知れず“里帰り”した梅の花に、蓄財を市井の人に生かそうとした篤実な人柄がのぞく。
  
 明治時代の横浜は「原(はら)茂木(もぎ)」と並び称される二人の生糸商がけん引した。埼玉県神川村出身の原(原善三郎)は事業成功後、衆院議員、貴族院議員を務め、政界から産業をリードする。茂木惣兵衛は経営する野澤屋(後の茂木商店)の生糸扱い高で、原の亀屋などを上回り長くトップの座にあったとされるが、国政を目指すわけでもなく、商人に徹した生き方だった。

 惣兵衛は著述をほとんど残しておらず、人となりは不明な部分も多い。足跡を「横浜商人とその時代」(横浜開港資料館編)に著した同資料館調査研究員の平野正裕さんは「大商人でありながらつつましく、情に厚く、徳人の一面を持っていたのではないか」と話す。

 篤志家ぶりを示すエピソードには事欠かない。平野さんによると、惣兵衛は火事になると懐に百円札を入れて駆けつけ、焼け出された人に黙って金を渡した。学校や道路の整備に多額の寄付を行ったり、能舞台を自ら建設、寄贈したという。

 事業の成功も、周囲と争うような鋭利な才覚ではなく、人を気遣い、時代の動きを見据えた柔軟な経営手法による。

 平野さんの研究で、座繰り製糸から器械製糸への移行期、惣兵衛はいち早く器械製糸を大量に集荷したことが明らかになっている。新興産地の信用を得て、七九(明治十二)年には長野県で生産された信濃糸総量の45%を扱った。産地への資金調達を目的に、第七十四国立銀行の大株主となって茂木商店の機関銀行とする一方、店員の給料には能力や実績を反映させた。店員が自己啓発のため学び合う「蘭契会」も運営されていた。

 「横浜商人とその時代」によると、八七(明治二十)年ごろの年間所得は大華族層と並ぶ五万円前後に達した。惣兵衛が六十六歳で死去すると、遺言に基づき簡素な葬儀とし、五千人の貧しい人たちに米代五十銭が配られたという。
  
 惣兵衛の死後、茂木商店は茂木合名会社として総合商社の道を歩むが、第一次世界大戦後の恐慌で倒産する。会社整理が進み、生糸商と並行して営まれた野澤屋呉服店は存続の道が開けた。野澤屋ののれんを惜しむ声が高まり、茂木家の親族にあたる名古屋の資産家が事業を継承、後に百貨店・横浜松坂屋となる。

 再出発した野澤屋呉服店の社是「商売は一歩さがって九に止め、謙虚の信念から生まれる奉仕の精神が肝心(抜粋)」は惣兵衛に発し、横浜松坂屋の企業理念に息づく。

 本県では第七十四国立銀行、茂木銀行(惣兵衛の死後設立)の整理統合などを経て発足した横浜銀行が往時の縁をつなぐ。横浜銀行の国内店舗は神奈川、東京、大阪、名古屋の大都市部に加え県内三支店で構成。横浜出身の高崎支店長、小澤正也さん(47)は個人的な関心から惣兵衛のことを調べ、先ごろ地元の会社経営者らに講話を行った。

 「顧客のため一円でも安くという姿勢は、惣兵衛にも、群馬を拠点とする家電量販店やホームセンターなどにも共通している」と小澤さん。横浜で一時代を築いた上州商人の気質は、形を変え現在に受け継がれている。

(関口雅弘)

 一八二七(文政十)年、高崎九蔵町で質商大黒屋を営む茂木惣七の長男として生まれる。幼名は惣次郎。太田の太物(綿・麻類)商、桐生の絹物商などに奉公後、横浜の雑貨商・野澤庄三郎に商才を見込まれ、三十代前半で野澤屋に入る。

 五九(安政六)年の横浜開港とともに生糸の売り込みに力を入れた庄三郎が死去すると、野澤屋ののれんを引き継ぎ、横浜を代表する生糸売り込み商に成長する。六四(元治元)年に野澤屋呉服店を開業し、金融業などとあわせ事業を多角化。第二国立銀行副頭取、第七十四国立銀行頭取も務めた。九四(明治二十七)年に死去。

 事業は親族の二代目、三代目(ともに名前は茂木惣兵衛)に引き継がれるが、世界的な恐慌で破たん。野澤屋呉服店のみ存続し、百貨店として現在に至る。

(5月27日掲載)