| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 17 和田 英 |
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「繰婦勝兵隊」(繰婦は兵隊に勝る) 「富国強兵」よりさらに一歩上をゆき、「繰糸技術を持つ工女は、兵隊以上に国のためになる」という直言だ。英はこの言葉に感銘を受け、「このような立派なる、私ども身にとりましては、折紙とも申すべき御書物(中略)、全世界に自分等が繰りました糸を非難する西洋人はなえとまで信じておりました」と、退場から三十年以上過ぎた後に著した回想録「富岡日記」の中で明かしている。 富岡で学んだ製糸技術に大きな自信と誇りを持った英は、その後指導者となって長野で製糸技術を広める際も「とかく富岡風で通しました」と、富岡の製糸方法を貫いた。 英が生まれた横田家は江戸時代、松代藩の武家だった。明治になると、父、横田数馬(一八三二−一八八〇年)は松代町と周辺十二村の区長を務めた。富岡製糸場の工女が足りないとの知らせを受け、「国のため」と二女の英を含めた地元の十六人の子女を同製糸場へ派遣した。 英が入場した七三(明治六)年ごろは、五百五十六人の工女がいた。その中で、英は飛び抜けて勤勉に働き、技術を吸収、わずか一年三カ月の間に一等工女となり、製糸場の全工程を学んだ。自らを「根が不器用」と呼ぶ英がこれほど群を抜いて成長したのには理由があった。 松代を出発する前、英は父からこんな忠告を受けた。 「国のためにその方を富岡御製糸場へ遣わすに付ては、よく身を慎み、国の名、家の名を落とさぬように心を用いるよう、(中略)他日この地に製糸場 出来(しゅったい)の節、さし支ひこれなきよう覚い候よう、かりそめにも業を怠るようのこと成すまじく、一心にはげみまするよう気を付くべく」 富岡市立美術博物館の今井幹夫館長は「金を稼ぐためではなく、国の産業を支え、旧松代藩や横田家の名誉を守ること、そして何より、覚えた技術を将来、郷里にできる製糸場で生かせる予定があったことが、熱心に働き、技術を覚える原動力になった」と分析する。 英は、後から入場した工女が先に繰糸作業を習うと目をはらして悔しがった。仕事の時間が終わっても、仲間と繰糸について話し合い、日曜日には貫前神社へ参詣して上達を祈った。一等工女になると、うれしくて泣いた。ほかの工女が一日に八升分の繭をひくと、自身も懸命に努力して八升分ひいた。富岡日記には、こうした英のひた向きな姿もつづられている。 七四年七月。繰糸技術を習得し、英とともに帰郷する工女は計十四人。人力車を連ねて松代に着いた。その行列の順番は尾高が決め、先頭は英だった。さらに英は郷里の有志が建てた民間の器械製糸場「西条村製糸場」で工女の筆頭となった。 英は当時の心境を、こうつづっている。 「私が(工女の順位で)下におりましたら、父が人様に面目を失う」「(富岡では)命もささげるくらいの意気組みでおりました」「何事も一心は岩をも徹すと申しますが、実にその通りであります」 若き一工女は国のため、家のため、富岡で懸命に技術を身に付け、長野の工女たちに伝えた。その詳細な記述は、日本の近代蚕糸業に残る大きな足跡となった。 (斉藤洋一) 1857(安政4)年長野県松代町(現長野市松代町)生まれ。旧官営富岡製糸場開業半年後の73(明治6)年3月、工女として入場。1年3カ月間の滞在で器械製糸技術を身に付け、1等工女となった。 郷里に74年8月、民間の西条村製糸場(後の六工社)が完成すると、帰郷して工女の指導的役割を務めた。78年8月に長野県製糸場の製糸教授に就任、9月には同製糸場を訪問された明治天皇の前で、繰糸作業を行った。80年9月に旧松代藩士で陸軍中尉の和田盛治と結婚し、製糸業の一線から退いた。 富岡製糸場在職から30年以上過ぎた1907年以降、当時の様子を著した「富岡入場中の略記」などを執筆。後に「富岡日記」として出版され、世に広まった。29年に72歳で死去。 (6月3日掲載) |
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