| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 19 船津伝次平 |
||||||||
自宅から近い神社で開かれた句会に船津伝次平が投稿した作品が最高点を取った。十四、五歳のころ、「養蚕」をテーマに詠んだ一句である。蚕が食べ残した桑の葉が吸いごろの煙草のように乾いているといいことを説明している。蚕の飼育に注意すべき点の一つに着目し、十七文字に表した。このころから専門的な知識を体得していたのだろう。 伝次平が六十五年の生涯を閉じた二年後の一九〇〇(明治三十三)年、東京都北区の飛鳥山公園に高さ三メートルの「船津翁の碑」が建った。教え子が伝次平の偉業を長く伝えようと、全国から浄財を集めて建立したものだ。 碑に刻まれた仮名交じりの一文が伝次平の生きざまを集約している。 「近世三老農の中に就きて技倆(りょう)功績最も優れたるは船津伝次平翁なり 当時学理未(いま)だ開けざりしかば労農の称あるものすら徒(いたずら)に手加減と目分量との経験を頼とするのみなりしに 翁痛く之を斥(しりぞ)け 実験に加うるに学理を以てし 大に農事の改良を唱へ…」 伝次平は一八三二(天保三)年、富士見村原之郷に生まれる。先祖は戦国時代に武田信玄に仕え、武田氏の滅亡とともに原之郷に移り、農業を始めた。四代目から代々、伝次平を名乗り、父、利兵衛路雄は六代目。寺子屋を開き、俳句をたしなんだ父から米麦や養蚕とともに、読み書き、そろばんを習った。 幼いころから、農業の本質を「天性のままにするのは間違いである。天性を率いるのでなければならない」と理解し、農民の目線で改良法を見いだしていった。 原之郷では子孫が農業を続けている。伝次平から伝次郎、惣平、恒平と継がれ、船津家十一代目となる洋平さん(64)は伝次平をこうとらえる。 「多くの人に慕われ、亡くなって百年たった今も改良に取り組み、指導した功績が伝えられているところに存在感がある」 安政六年の開港以来、貿易の主役は生糸になり、養蚕業を刺激した。外貨を稼ぎ、国を富ませるにはまず養蚕の振興が第一の命題だった。 船津家は繭や生糸による収入が徐々にウエートを増すようになる。伝次平は一八七三年に桑を増やすための「桑苗簾伏(すぶせ)法」、一八七五年に「養蚕の教(おしえ)」を書いた。それまで女性が中心だった養蚕に男性も本腰を入れるべきだと考えたからだ。 「…よい繭取るよに 御神や仏を 頼むも無益よ…」。節をつけて歌う「ちょぼくれ」で表現した「養蚕の教」。迷信にとらわれずに学問や経験を生かすべきだと説いた。ちょぼくれは、歌いながら物事を覚えることができ、耳からの学習は農民の心をとらえた。子供も口ずさむほど広がったという。 明治維新後、国の農業政策は農作物の増産が緊急課題。確かな技術を持った指導者を捜していた。これに対して、蚕糸業振興に力を注いだ県令の楫取(かとり)素彦(一八二九−一九一二年)や前橋藩士で器械製糸工場を作った速水堅曹(一八三九−一九一三年)が、指導者として伝次平を推した。 大久保利通内務卿に認められた伝次平は一八七七年、東京駒場農学校の教師に迎えられる。家族を残しての上京。四十五歳の決断だった。 生徒の講義筆記を集めた「栽桑実験録」が出版され、伝次平は五十三歳になって巡回教師として農業改良の指導に行脚。どこへ行っても農民と同じ身なり、ちょぼくれを歌い、上州弁の語りが受けた。 「改良は人間の必要のために、自然の性質を変える努力」。古里の山野を駆け巡って身に付けた術(すべ)。農民の心を耕した老農の実践的な教えが、全国の田畑にしっかりと根を張っていった。 (山形博志) 1832(天保3)年、勢多郡原之郷(富士見村原之郷)に生まれる。船津家7代目、幼名は市造。農業を営む父が農閑期に開いた寺子屋で学び、和算家から算術を修得した。俳句にも傾倒し、号は「冬扇」。 57年に伝次平と改名。農業に励み、農産物の改良、栽培法を研究し、水不足と水害防止のために赤城山に植林。名主や大惣代に選ばれた。77(明治10)年に大久保利道内務卿に見込まれ、東京駒場農学校の教師に。 86年には農商務省の農事巡回教師になり、全国で農業の改良を指導。「太陽暦耕作一覧」「桑苗簾伏法」やちょぼくれの「養蚕の教」「里芋栽培法」「農業問答」などを著した。98年に農事試験場技師を辞し帰郷、その年の6月に胃を患い、65歳で逝去。明治3老農の一人。 (6月24日掲載) |
||||||||