「ぐんまルネサンス」 第2部
20 桑島 定助
 
桑島 定助
 「師は極めて平凡なる常識と円満なる人格者で、いかなる場合においても憤怒顔を見たる人は恐らくはなかったろうと思います…」

 一九三三(昭和八)年十一月、桑島定助は日本放送協会(NHK)前橋放送局で「船津伝次平とはいかなる人か」というテーマでマイクに向かっていた。六十歳をすぎてもなお、底流には師と仰ぐ伝次平の生きざまが色濃くあった。郷土史研究家、柳井久雄さん(79)=富士見村米野=は「伝次平の教えを実践した一番弟子が桑島」と位置付ける。
        
 桑島は一八六七(慶応三)年、伝次平と同郷の同村原之郷で、農業を営む品川与平の三男として生まれる。小学校高等科の成績が優秀で任された代用教員を三年で辞め、血書を携えて前橋市関根町の器械製糸所「研業社」の門をたたく。十七歳の思い切った行動だった。同村に住む孫の新一郎さん(85)は実業界に転じた理由を「貧困状態の農村を活気づけるための決断」と伝え聞いている。

 研業社は養蚕から製糸まで一貫した経営。創業当初から養蚕技術を助言していた伝次平から直接、桑島が教えを受けたのは研業社の修業を終えた八八(明治二十一)年から。駒場農学校の実習教師だった伝次平を訪ね、寝食をともにした。養蚕指導者としての桑島の技術は、内務大臣を経て明治天皇の質問にお答えする機会を与えられるほど、評価されていた。

 西郷従道家や京都の養蚕伝習所で養蚕の指導に当たった桑島は九三年に帰郷。伝次平の仲立ちで桑島家の養子となり、蚕種製造業を継いで品種改良に着手した。製造された「青熟」「赤熟」「又昔」は、糸量が多く光沢のある蚕種として全国各地で開かれた共進会で認められ、注文が相次いだ。フランス政府から試験用に購入の申し込みも受けたという。

 伝次平の教えとともに、桑島の精神を支えたのはキリスト教だった。「富士見かるた」には〈平和論者の桑島定助〉と詠まれている。研業社を築いた深沢雄象(一八三三−一九〇七年)らが信仰していたことにも刺激され、十八歳で洗礼を受けた。

 一八九五年に富士見村で立ち上げた私立養蚕教習所には、農閑期になると村内や周辺の赤城、北橘、芳賀村から青年子女が集まってきた。男子に農業技術、女子には妻の保が家政や裁縫を教えた。桑島は前橋英和女学校(共愛学園高校)の設立にもかかわった。
      
 教習所を巣立った青年たちに推され、県会議員に。一九二六(大正十五)年、「養蚕家救済ニ関スル建議」をまとめ、産業組合組織による製糸の必要性を説いた。第一次大戦による世界的不況から輸出が狭められ、製糸産業が苦境に立たされたからだ。本県でも農家が売った繭の代金を払えないような状況だった。

 二七(昭和二)年、「群馬社」を創設。理事となった桑島は寄宿舎に泊まり込み、生産指導とともに情操教育に力を注いだ。女子工員は三千人を数え、各地に供繭組合を組織。全国に誇る組合製糸として順調に業績を伸ばしていった。だが、繭販売や生糸出荷にかかわる組合員の告発に端を発し、群馬社は崩壊寸前に追い込まれる。

 再建のため、桑島らと組合員の説得に奔走した五十嵐吉蔵(一九〇一−一九五九年)は、桑島を回顧する座談会でこう発言している。

 「桑島さんの『農民資本で農民の経済を守る』という思想と情熱が組合員を引きつけ、動かした。そういう思想から出た根強い運動が再建を成し遂げたんだ」

 農民の心の叫びにどう応えるか。蚕糸業界の先覚者の目線は伝次平と同じだった。

(山形博志)

 1867(慶応三)年、富士見村生まれ。小学校高等科を卒業後、代用教員となる。1885(明治十八)年、器械製糸所・研業社に入所し養蚕業を学ぶ。

 養蚕指導者として88年から西郷従道家の養蚕経営に従事。その後、京都の養蚕伝習所の主任教師を務め、帰郷。桑島家の養子に入り、養父新平の蚕種製造業を継いで私立養蚕教習所を設立した。

 キリスト教信者として濃尾大地震の救護隊に入り、足尾鉱毒事件では農民救済運動に参加。平和を唱え、禁酒主義を貫いた。

 1910年、県議会議員に初当選し計3回当選。27(昭和二)年、組合製糸の群馬社を創立。不正の告発から破たんしかけた同社を立て直した。終戦後、日本社会党県連を結成、最高顧問に。48年、80歳で逝去。


(7月1日掲載)