| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 21 永井紺周郎、いと |
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幕末から明治の初めにかけて、利根・針山新田(現片品村針山)の永井紺周郎と妻のいとが考案した「いぶし飼い」だ。当時「蚕は火が嫌い」とされ、炊事さえ屋外で行っていた。いぶし飼いはこの昔からの風習を覆した。人々は驚きとともにいぶし飼いを取り入れ、夫妻のことを「蚕の神様」「蚕のお医者さま」と敬った。 「常識を変える飼い方で、農家の人々をこしゃり(蚕病の一種)の不安や不作の苦しみから救った。人々が夫妻のことを神様のように思うのも当然だろう」と、片品村文化財調査員の大久保勝実さん(83)は語る。 「いぶし飼い」の発見は、偶然の出来事だった。一八六八(慶応四)年七月の戊辰(ぼしん)戦争時、会津藩の兵と争う官軍の沼田藩士二十五人が宿を求めて紺周郎宅を訪れた。雨でぬれた衣服や武器を乾かすため、室内で一昼夜、火をたいた。飼育中の春蚕(はるご)は四齢の四日目。八、九割が蚕病にかかっていたところに、さらに官軍がたき火をしたことから、紺周郎は全滅を覚悟した。ところが二日後には蚕の病気が回復。周囲の農家はみな不作だったが、紺周郎宅はたくさんの繭がとれた。 夫妻はこの豊作を、偶然で終わらせなかった。翌六九年は掃き立てと同時に火をたき、夜中にも四回起きて室温や蚕の様子を調べた。七〇年は蚕病続きに悩む近隣の農家にたき火を勧めたところ、そのすべての農家が豊作になった。この話が各地に広まり、誰と無く紺周郎宅を訪れ、飼育法を学ぶようになった。 住み込みの生徒は、多い年で二十人を数えた。紺周郎やいとが出向いて講話や実地指導をする生徒も含めた門下生は千五百人を超えた。夫妻は偶然と研究によって編み出した“永井流”の飼育法を、門下生らに惜しみなく広めた。 紺周郎はこうした養蚕指導で金を稼ごうとは考えなかった。門下生の三浦幸三郎が夫妻のことを記した「永井流養蚕術伝記」にはこう記されている。 「先生は養蚕指導料は申受ず、御礼として各自紙に包て差出したる思召の礼物を申受るなり」「自分は国家の為の事業なれば貧民にして蚕種求めがたき者には、私費にて蚕種を買求めて与へ飼育指導をなし、養蚕業普及なすを目的とす、故に授業料目的にあらず、依って養蚕教師門下生に一人も無き所以なり」 飼育法を教えるのは、農家一軒一軒を豊かにし、国を富ますため。飼育指導によって収入を得る「養蚕教師」を育てることはしなかった。 紺周郎は正式な養蚕学校「永井流養蚕伝習所」を開くことを夢見て逝った。遺志はいとが継いだ。いとは自宅の伝習所で教える傍ら、群馬郡や勢多郡で講演するため、朝三時に家を出た。男のように馬の背に乗る姿から「紺周郎婆さん」とも呼ばれた。 前橋市上大屋町には今も、「紺周郎神碑」という高さ二メートル余りの石碑が畑の中にそびえる。永井流養蚕術伝記は建立の経緯をこう伝えている。 「上大屋は古来より養蚕豊作したる事無しと称する難村」「北に大沼有りて常に湿風流動なすに依り、病蚕も此原因ならん」「我焚火を最適当と認め指導なしたるに、其年より好結果を得たり」「其後毎年豊作なすに依り(中略)神碑建設なして門人一同信仰なしたり」 渋川市赤城町勝保沢と、同市横堀にも夫妻をたたえる碑が建っている。養蚕農家が「神」とあがめた感謝の気持ちは、時代を越えて受け継がれている。 (斉藤洋一) 紺周郎は1831(天保2)年、利根・針山新田(現片品村針山)生まれ。妻のいとは36(同7)年、追貝村(現沼田市利根町追貝)生まれ。68年の戊辰(ぼしん)戦争で官軍が針山新田の夫妻宅に宿泊した際、雨でぬれた衣服を乾かすために蚕室で火をたいた。この年の繭が豊作だったことから、夫妻は蚕室を火で暖める「いぶし飼い」を考案し、本県山間部に広めた。 紺周郎は72年に熊谷県の蚕種検査養蚕見廻り役、82年に利根北勢多郡役所の勧業世話役に就任。87(明治20)年に養蚕学校「永井流養蚕伝習所」の設置許可を県に提出するが、同年5月に逝去。翌88年に伝習所設置が認可されると、いとが指導を行った。いとは98年、現在の渋川市赤城町で講義中に倒れ、1904年に死去。 (8月5日掲載) |
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