「ぐんまルネサンス」 第2部
23 吉田 芝渓
 
芝中(現渋川市渋川・御蔭地区)にある芝渓の墓。県史跡に指定されている
江戸時代後期の儒学者、吉田芝渓は一七九三(寛政五)年、開墾に取り組む決意をした。場所は渋川村(現渋川市)から伊香保温泉へ向け、山道を一里(三・九キロ)余り登った芝中(現御蔭地区)。軽石交じりのやせた土。西は榛名山、北と南はその尾根に囲まれ、シカやイノシシの食害を受ける厳しい条件だった。学者であり、繭や生糸、たばこを商っていた芝渓が、渋川宿の中心部に建つ家を捨て、なぜ過酷な開墾に挑んだのか。

 答えは中国の歴史書「史記」にあった。史記は農業で豊かになることこそ天地神明にかなう「本富(ほんぷ)」と説き、工商は農に次ぐ存在、農工商の道から外れた富裕者は憎むべきものと教えている。芝渓は毎夜、史記一巻を読破し、一字一句を追究した。その答えが「農業の実践」だった。

 「民としての最上の善行は荒れ地を再開墾すること」。開墾を勧めた自著「開荒須知」の冒頭に、芝渓の信念が凝縮されている。

 当時の上州は、芝渓が養蚕指導書「養蚕須知」に、〈我上毛の国は養蚕昔より多くして海内第一といへり〉〈民家の富も衰へも皆養蚕にある事なれば農家の人是を大切にすべきの第一の事なり〉と書くほど、養蚕が普及していた。芝渓の開墾も、養蚕こそが成功の鍵だった。

 開墾に挑んだのは芝渓と弟の翠屏(すいへい)、小作人ら計五人。木々を切り払い、根を掘り起こして畑を造ると、周囲に桑の苗を植えた。〈一反の周り桑苗三百本〉(開荒須知)が標準。計五町歩(約五f)だった開墾地は、一万五千本の桑に囲まれた。この“あぜ桑”が芝渓の生活を支えた。

 土地のやせた開墾地では、一年目は豊作でも二、三年目は地力が落ちて収穫量が半分以下に減ってしまう。このため小作人は逃げ出し、田畑は荒れ地に逆戻りしてしまうことが多かった。これに対し、あぜ桑は年ごとに大きく育つ。蚕を飼える量は増え、利益も増す。芝渓はあぜ桑のおかげで、農産物の収穫の減少を補って余りある収入を手にすることができた。

 こうした自らの経験に基づいて著したのが、「養蚕須知」と「開荒須知」だった。〈新しく開墾した場所では、是非とも桑を植えさせ蚕を飼しむべし〉。書中で何度も繰り返し訴えている。

 開墾を成功させた名声は各地へ届いた。一八〇五(文化二)年には、水戸藩主の徳川治紀(はるとし)に招かれて対面、二つの著作を献上し、褒美に常磐絹と金一封を受け取った。芝渓は「芝中の先生」「新田の先生」などと慕われ、家には毎夜、有能な弟子が集まり、実学の精神を学んだ。

 ところが開墾地は、長くは続かなかった。芝渓が一一(同八)年に死去した時、養子の大二郎はすでに亡く、指導者を失った小作人は散りぢりになってしまった。

 芝渓の開拓は、骨折り損に終わってしまったのだろうか。

 県文化財保護指導委員の大島史郎さん(68)=渋川市=は、「芝渓は木暮足翁(そくおう)や周休ら多くの門弟を育てた『渋川郷学』の祖である。四書五経や中国の古典の解釈に終わるのではなく、開墾の体験を基にし、農民が実際に生かせる学問をまとめた功績は大きい」と語る。

 芝中は山林に戻ったが、芝中で培われた実学の精神は門弟たちへと伝わった。そこで生まれた二著は、有用な書として全国に広まった。書に従って田畑を広げ、あぜ桑を植えた農民がどれほどいたか計り知れない。

(斉藤洋一)



よしだ・しけい  1750(寛延3)年、渋川村中之町(現在の渋川市渋川)生まれ。糸繭商を営む吉田甚兵衛の長男。15歳ごろから北牧村の学者、山崎石燕に学び、76年に江戸幕府の学校「昌平黌(こう)」の聴講生となった。京都の儒学者で実学に詳しい平沢旭山が85年、渋川村を訪れた際、自宅に長期滞在を願い出て、国学や経済、養蚕、開拓など多方面の教えを受けた。
 家業の繭糸商を継いだが、不正なはかりを使う悪習を嫌い、たばこや水油を商った。93年に芝中(現御蔭地区)に移住し、山林五fを開墾、養蚕や農耕作を行った。この経験をもとに養蚕指導書「養蚕須知」、開墾の重要性を説いた「開荒須知」、飢饉(ききん)への備えを勧めた「救荒須知」などを著した。1811年に61歳で死去。



(8月19日掲載)