| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 26 森山 芳平 |
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桐生からは森山芳平の「花卉(はなくさ)模様緞子(どんす)卓被」と題したテーブルクロスが出品された。タテ一九八a、ヨコ二○九aの大作で、一面に四季の花を織り出し、周縁に桜と紅葉を配している。 「桐生織物と森山芳平」(みやま文庫)の著者、亀田光三さん(76)=桐生市小曽根町=は「工芸織物として最高の技術が結集されている。桐生産地の最高水準の織物」とみる。作品は東京国立博物館に収蔵され、桐生織物の“実力”を伝える。 幕末の横浜開港で生糸の不足と価格高騰に見舞われ、織物産地の桐生は大打撃を受けた。森山は技術革新と輸出織物の両分野で開明的機業家の役割を演じていく。 生糸の不足は輸入洋糸(綿糸)を活用、桐生は絹綿交織物で息を吹き返す。八一年のデフレ政策で景気は後退するが、救い主となったのが羽二重輸出だった。 羽二重は白色薄地の絹織物で、外国ではハンカチや婦人衣料に加工された。森山は八五年四月の日記に〈生糸で輸出するより製品としての羽二重で輸出する方が利益になる〉とつづっている。羽二重の生産を桐生産地は九〇年ごろまで独占、輸出織物の元祖となった。 桐生を代表する機屋、藤生佐吉郎(一八五一−一九一五年)、横山嘉兵衛(一八五二−一九一三年)とともに森山は八八年、皇居御用品の「窓掛用紋織物」の注文を受けた。注文に沿った細かい紋柄を織り出すため、三人はジャカード機を米国から輸入している。 桐生織の特徴は、先染め糸を用いて模様を織り出す紋織りにある。精巧な紋織りには同機が大きな力を発揮した。藤生佐吉郎履歴書に〈(ジャカード機を)地方に拡張せんとの目的をもって、森山芳平らと謀り、同業者にその利器なる事を論示し漸ぜんぜん々その利益を悟らしむ〉とある。皇居御用品の受注は、桐生に同機が普及する契機となった。同時に精巧な桐生織の花卉模様緞子卓被の誕生へと実を結んでいく。 平織りの単純な羽二重を輸出してきた桐生は、ジャカード機の普及に合わせて紋羽二重が急増する。技術の進化は輸出品にも影響を及ぼした。 京都・西陣を含め、織物技術は産地の“秘密”が常識だった。そんな時代、森山に師事し後に県立織物学校長となる 高力直寛(こうりきちょっかん)(一八六五−一九二七年)は、森山の命を受けて八七年に福井県を訪れ、羽二重の技術を伝えた。これにより同県の羽二重生産は飛躍的に発展し、〈九二年には、早くも先進地たる本県を抜き去るに至る〉(群馬県史通史編8)。 桐生にとっては、ある面で貴重な技術の流出ともいえる事態だ。これに対して孫の森山享さん(75)=桐生市堤町=は言う。 「祖父は福沢諭吉に心酔していた。自立、実学、公平などを大切にする考えを持ち、国の利益を優先していた。羽二重の技術を公開するのに抵抗はなかったと思う」 同市東の森山家の庭に榎本武揚篆額(てんがく)の頒巧碑(しょうこうひ)がある。高力らが森山親子の献身的な織物伝習教育に感謝して建立した。門人は現在のJR桐生駅前での建立を希望したが、森山は「そんな(碑)ために教えたのではない。…庭に埋めるから持ってきなさい」と建立を断った。困った一同は森山に相談して、庭に立てた。 高さ三メートルの碑の裏面には、北は秋田県から南は宮崎県に至る十四府県の三十一人と三団体の名称が刻まれている。森山の下で学んだ門弟は全国に技術を伝えた。森山イズムは北陸の織物産地にしっかりと根付いている。 (山脇孝雄) 1854(安政元)年1月23日、機業家の森山芳右衛門の長男として生まれる。早くから染色の改良を志し、後藤定吉(1848〜1910年)ら桐生織物の先駆者と78(明治11)年、県医学校で染色術を学び、織物と染色を結び付けた。 生糸より織物の輸出に利を求め、74年には見本織を米国に数回送り、後の羽二重輸出では指導的な役割を果たす。 織物技術の向上にも関心が深く、83年の万国博覧会で一等賞を受賞。ジャカード機の桐生への導入も先陣を切った。88年の皇居御用品や93年の世界博覧会で、長年の努力の成果を示す。 技術の普及に尽力した他、桐生織物講習所、桐生織物学校、桐生撚糸合資会社(後の日本絹撚)の設立にもかかわる。 1915(大正四)年2月27日、病没。61歳。 (上毛新聞9月30日掲載) |
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