「ぐんまルネサンス」 第2部
29 森村 熊蔵
 
      森村熊蔵
  伊勢崎織物業組合は一八九一(明治二十四)年、分裂の危機を迎えていた。

 〈紡績絹糸は玉糸の代用に使っても差し支えないと思う。(中略)このままでは一人でも組合を抜けて織りだすつもりだ〉(「伊勢崎織物同業組合史」)

 有力な織物業者、森村熊蔵が下城弥一郎(一八五三−一九〇五年)を組合長とする組合の決定に異を唱えたのだ。

 伊勢崎織物は組合が発足した一八八六年から順調に生産を伸ばしていた。翌年の八七年が二十二万反、五年後の九二年には四十六万五千反と倍増している。

 好況の中で生まれた組合分裂の危機は、京都の呉服商組合から織物業組合に届いた抗議の書簡がきっかけだった。

 〈玉糸を使った太織(ふとり)を依頼したのに紡績絹糸を使ったものが増加している。そのうえ玉糸織と紡績織を区別する証明書をつけるように依頼したにもかかわらず何の返事もない。早急に善処してください〉(「伊勢崎市史」)

 織物業組合は臨時会で抗議を受け入れ、紡績絹糸を使った織物を区別することなどを決めた。森村は組合の決定に納得できなかった。

  「糸」をめぐる対立は、フランスから紡績絹糸が輸入されるようになった八七年ごろから始まっていたといわれる。

 太織に使われる経糸(たていと)は、農家の副業として座繰りでひかれた玉糸。糸の太さがふぞろいだったため、織る作業は難しく、熟練が求められた。輸入された紡績絹糸は機械化による製品だけに価格は比較的安く、太さもそろっていたことから織る作業も容易だった。このため、伊勢崎でも紡績絹糸を使う織物業者が増加していた。

 対立は九三年の織物業組合役員選挙をめぐってさらに深まり、森村ら百三十六人が脱会して伊勢崎改良織物組合を設立した。だが、組合分裂の不利益を説く知事や県内のほかの織物組合の声を受け、その年の暮れ、桐生商工業組合の白石弥太郎総代らが調停に入り、和解が成立した。

 織物組合が排除しようとした紡績絹糸の使用量は増加する。八八年は〇・七dだったが九一年は五〇d、一九〇六年には一一六dとなり、玉糸の三三dを大きく上回り、織物原料に対する割合は約66%となった。森村が進めようとした紡績絹糸の使用は時代の大きな流れとなり、もはや止めることはできなかった。

 〈保守は保守として産地を愛し、進取は進取として産地を憂えたもので、今日の隆盛を得たという意味で、この紛争は組合発達史上、大きな光を放つ〉

 織物組合によって一九三一(昭和六)年に編さんされた「伊勢崎織物同業組合史」に、組合分裂劇は、こう記された。「進取」の中心人物はもちろん森村だ。
 
 森村はいざり機(はた)に替わる高機の導入でも知られる。一八八七年、ちりめん製造のために京都から持ち込んだ。いすに腰掛けた形で操作する高機は、床に座ったままで織るいざり機に比べ作業効率が高かった。普及までの道のりは決して平たんではなかったが、伊勢崎織物に転用できるように改良を重ね、後に日露戦争後の消費拡大を支えることとなる。

 「森村熊蔵は新しい、優れた織物を作って伊勢崎織物の発展を図ろうとした。産地振興の確かな礎を築いた」。伊勢崎織物協同組合の田村直之理事長は、森村の果たした役割をしのぶ。

 伊勢崎市曲輪町にある織物協同組合の構内には、一度は対立した森村と下城の顕彰碑が並ぶように建つ。台座を含めた高さは共に四・五メートル。伊勢崎織物に二人が尽くした功績をしっかりと伝えている。

(田中茂)





 1850(嘉永3)年、佐位郡上武士村(現在の伊勢崎市境上武士)に生まれる。生家は農業の傍ら染色業を営んでいたが81年、織物の元機屋を始める。昔ながらの非能率的な方法をやめて、すべて分業制を導入。地域で機織りの指導をして生産の増大を図った。生産の増加に力を注ぐ一方、東京にも販売店を設けた。89年、無伸縮のちりめんを発明して森村ちりめんの特許を得た。ちりめんのほか羽二重(はぶたえ)や琥珀(こはく)織など海外向け織物を手掛けた。日清戦争後、韓国・仁川などに支店を設け、積極的に輸出を図り、伊勢崎織物の販売に大きく貢献した。伊勢崎太織会社から改組した伊勢崎織物業組合の第4代組合長を96年3月から1年間務めた。92年、県議に当選している。97年、47歳で亡くなる。

(上毛新聞10月21日掲載)