| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 32 沼賀茂一郎 |
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沼賀茂一郎を記した数少ない文章から、人生への強い意志が見える。幕末から明治にかけ、沼賀の足跡は水車を使った製糸業、貿易商、生糸商、舟運業、県議、桑園改良−と変転を重ねた。予期せぬ出来事に見舞われては、進取の気性と不屈の精神で新しい事業を起こした。開国とともに揺れ動いた絹の歴史と二重写しの生涯だった。 右手の自由を奪った事故が原点にある。藤塚村の碓氷川のほとり、十五歳の茂一郎は砂糖絞りの水車で右手に大けがを負った。「天資英邁(えいまい)」と言われた少年は以後、左手で文字算術に励み、上達ぶりが周囲を驚かせる。父の茂兵衛は将来を案じて新しい水車を買い与え、米麦をひく事業を始めさせた。 茂一郎は水車の研究に没頭し、顧客の信用を広げていく。一八五九(安政六)年、二十八歳の時に水車の動力を使って糸枠を回転させる生糸の製糸方法を考案した。 発起人となって賛同者を募り、座繰りを連結。糸枠は四台を組んで一口にし、十口を三十人で操作した。一日当たり二石七斗(推定三百キロ以上)の生糸を作り、前橋などの市場で販売したという。本格的な器械製糸にはほど遠い時代、他の地域に先駆けた「群馬県における座繰り製糸の嚆矢(こうし)」(同伝記)とされる。 ところが、水車と製糸場は設置から二年後の六一(文久元)年、碓氷川の大洪水で全損し、廃業となる。茂一郎は同郷の豪商、堀越角次郎の勧めで横浜に新天地を求めた。横浜本町に店を構えると単身、外国商船と交渉し、積み荷すべてを買い付ける豪腕の貿易商となった。同時に国内の織物類を売り込み、膨大な財を成した。 そうした商才も、攘夷(じょうい)運動の中で撤退を迫られた。諸藩の浪士が横浜商人を「天誅(てんちゅう)」と称して殺傷する事件が相次いだ。身辺にも危害が及んだため郷里に戻り、上州から信州、越後、北陸方面から大量の輸出用生糸を買い付ける事業を始めた。 八〇(明治十三)年、横浜のバビール商会との間に騒動が起こる。見本と積み荷に品質の差があるとして値引きなどを求める外国人に対し、茂一郎は事実無根として一歩も引かず、取引の破棄を申し入れた。 さらには同業者百三十二人の同意を取り付け、外国と対抗できる商業権益の確立に努めた。「常に大志を抱いて」という強い意志が、生糸の国際的地位の向上に奔走させたのだった。 地元の高崎では七一(明治四)年、烏川の聖石河原に舟の回漕問屋を開き、流通の基礎をつくった。土蔵の倉庫が建ち並んだ「沼賀河岸」は、東京方面との交易でにぎわった。沼賀氏代々の足跡を文書にまとめている沼賀家十三代目の靖さん(85)=高崎市藤塚町=は茂一郎について、「先が見える人。豪胆な気性は、押し入った強盗の刀を素手で抑えたという母親譲り」と語る。 晩年は県議を経て、桑園の改良事業や養鯉業に取り組む。信越線の踏切近く、汽車に驚いた馬から落ちた事故が原因で死亡するが、夢は尽きない。後年、郷土史誌「上毛及上毛人」に掲載された人物評伝には〈掉尾(とうび)の事業として、数百の移民を率い、海外に一大農園を開拓する大望〉を抱いていたとも記されている。 (関口雅弘) 一八三〇(天保元)年、藤塚村(現高崎市藤塚町)の資産家、沼賀茂兵衛の三男として生まれる。村内の木村玄泉の下で和漢の学を修めた。 水車を製糸に活用し、生糸の座繰りを連結して水車の動力で糸枠を回転させる仕組みを考案した。横浜に出て、外国人との織物取り引きで財を築く。県内外から生糸を買い付け輸出用に出荷したほか、烏川の高崎聖石河原や岩鼻に舟の回漕問屋を開いた。また藤塚小(現高崎八幡小)の設立に向け、多額の財産を寄付した。 七九(明治十二)年の最初の県議選に立候補し当選。九四(明治二十七)年に死去。 沼賀健次(旧姓反町)元高崎市長の妻、正子の曾祖父にあたる。 (上毛新聞11月18日掲載) |
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