「ぐんまルネサンス」 第2部
34 江原 芳平
 
      江原 芳平
 前橋の生糸商が稼ぎ出した富は、どれほど巨額だったのだろう。糸のまちを活気づけ、後に金融界を仕切り、県庁誘致のキーマンとなった商人たち。財を成した源は前橋と横浜を結んだ生糸だった。

 江原芳平の父、芳右衛門は一八五九(安政六)年の横浜開港時に嬬恋村出身の商人、中居屋重兵衛(一八二〇−六一年)を介し前橋生糸輸出の先鞭(せんべん)をつけた一人。まだ十代だった江原は父ともに有力生糸商として力をつけていった。

 輸出品としてクローズアップされた生糸の生産基地、前橋に藩営の器械製糸所ができたのは一八七〇(明治三)年。いち早く器械製糸導入を試みたが、上州座繰りの本場に器械製糸はなかなか根付かなかった。

 前橋では個々の生産者が製糸結社をつくり、生糸商を通さずに横浜へ生糸を送る動きが広がりつつあった。生糸商として生き残るためには生糸を生産する組織を立ち上げることが急務だった。下村善太郎(一八二七−九三年)がかかわった昇立社をはじめ、生糸商らが座繰り製糸を改良して出荷する製糸所を相次いで創業。江原は七九年に前橋市朝日町に天原社を興した。

 電信の開通で産地と横浜の取引価格に差がなくなり、前橋で生糸を買って横浜で売っても利益が上がらないことも商人の起業に拍車をかけた。

 江原は生産された生糸を買い集めた「買い継ぎ糸」から、繭を購入して農家に生糸を挽(ひ)かせる出釜方式の「賃挽(び)き糸」へ軸足を移動。藤岡や新町をはじめ埼玉、長野から繭を買い取り、農家に挽かせた。賃挽きの工女とともに、天原社に設けた水車を動力にした揚げ返し工場にも工女を雇った。

 工場では、アメリカに向けて品質を統一するために揚げ返した生糸を捻(ねじ)り造りの形に束ねて出荷。主に高崎出身の貿易商、茂木惣兵衛(一八二七−九四年)を通じて外国の商館へ売り込まれ、高値がついた。

 郷土史を研究している前橋市文化財調査委員の阿久津宗二さん(76)=同市総社町総社=は「十代で得た横浜貿易の体験が江原に国際的な経営感覚を植え付けたのだろう。生糸の品質改善や生活苦だった小作人から工女を雇い入れるなど、糸のまちの繁栄を支えた一人」と評する。

 活況が続いた天原社は一九〇七(明治四十)年に閉鎖する。賃挽き用の繭の仕入れが難しく、原料コスト上昇が経営をひっ迫させたとみられる。改良座繰りの全盛が器械製糸導入を遅らせ、本県の製糸業を一時的に衰退させるのを予測したかのように、江原はきっぱりと製糸業界から身を引いた。

 〈翁の生涯は、終始一貫して勤勉、節倹、勤恪かく、力行の生涯であった。特に経済界の機微に至っては、最も明敏なる観察眼を持っておられた〉。郷土史誌「上毛及上毛人」に掲載された評伝に江原の人柄が集約されている。

 財力を持つ生糸商人が金融市場に与えた影響も多大だった。一八八一(明治十四)年、茂木ら横浜の売込商と下村、江原ら生糸商が主要株主となって上毛物産会社を立ち上げ、荷為替金融を盛んに行った。

 旧前橋藩士がつくった第三十九国立銀行の経営危機を救ったのも株式を買い集めた江原ら。前橋の金融界は次第に生糸商が支配するようになった。江原は物産会社社長、銀行頭取を勤め、前橋商工会議所初代会頭に選ばれ、政界にも身を投じる。

 生糸にかけたすべての商人が富を築いたわけではない。変革の世を生き抜いた江原の転身は、時代のすう勢を直感した選択だったのだろうか。
(山形博志)




 1848(嘉永元)年、江原芳右衛門の三男として前橋市に生まれる。幼名は治三郎。父と共に生糸商を営み、20代半ばで家業を継いだ。

 79(明治12)年に製糸社天原社を設立、製糸の売買から製糸業に乗り出した。生糸商だった下村善太郎らとともに前橋への県庁誘致に絡み、私財を投じて県都発展の基礎を築いた。

 81年、旧前橋藩士が中心となって設立した第三十九国立銀行の取締役になり、後に頭取に。生糸商の機関銀行的役割を担った上毛物産会社の社長を務めた。繭糸保管のために興した上毛倉庫は現在まで、江原家によって代々引き継がれている。

 前橋商工会議所の創設にもかかわり、初代会頭に就任。その後、政界に身を転じ、1911(明治44)年に貴族院議員となった。28(昭和3)年に死去。




(上毛新聞12月2日掲載)