「ぐんまルネサンス」 第2部
35 星野 宗七
 
横浜に「星野屋」を出店した星野宗七(星野達雄さん提供)
 戸鹿野村(現沼田市戸鹿野町)の名主の家に生まれた星野宗七は一八六八(明治元)年、生糸と蚕種を輸出する「星野屋」を横浜に出店した。丸に七つ星の家紋を刻んだ屋根瓦を載せ、堂々とした店構えを誇った。けれどもわずか十六年で倒産した。激動の時代、利にさとい商人が集う貿易港で、荒波にのみ込まれてしまった。歴史資料に名を刻む間もないほどだった。
 
 星野が出店時に持参した金は一万両とも三万両ともいわれている。現代に換算すると数億円から数十億円という大金が、泡と消えた。すべてを失った星野が、一つだけ古里に持ち帰ったものがあった。二男、光多の心に宿ったキリスト教の精神だった。
 
 病気の父に代わって、星野は十七歳で家業を継いだ。十八歳で結婚した翌年に突如家からいなくなり、半年後にふらっと帰ってきた。そんな自由奔放な性格だった。地方の村から、貿易の都横浜を目指したのは戊辰(ぼしん)戦争のころ。治安は乱れに乱れていた。心配する周囲の声を気にもとめず、妻子を残し、弟に家業を任せ、一人古里を後にした。

 星野の死後、遺族がその歩みをまとめた「星野宗七履歴」が子孫宅に〈御維新の大政変に際し、伝来の家業行はれ難きを察し、横浜貿易を思ひ立ち、之が為め明治初年より?々奥羽信州等へ出張し、幾多の危険を冒して大に商業を営めり〉

 〈当時、戦乱の余燼(よじん)未(いま)だ消へず、新政府の行政不行届を極め、道路の不便、武人の暴行、盗賊の危害、今日行商人の思ひ及ばざる所なり〉

 名主の家柄。繭や生糸などの取引で代々蓄えた一万両以上の財産。地方で安穏と暮らすこともできたろうが、宗七は危険をかえりみず、横浜へ行った。

 「生まれつきの商売好き。同じ上州の中居屋重兵衛らが活躍するのを聞き、じっとしていられなくなったのだろう」と、星野の子孫にあたる星野達雄さん(86)=新潟県妙高市=は語る。


 横浜に念願の店を開いたものの、商人同士の激しい競争にさらされた。貿易に慣れた外国商人からは、糸に難癖をつけられ買いたたかれた。

 横浜・シルク博物館の小泉勝夫専門員(71)は「生糸の商売はばくちと同じ。朝は大尽でも夕方に無一文となることもある。持参金一万両は大変な額だが、横浜ではあっという間にすってしまう額でもある」と話す。

 横浜に目立った足跡を残せなかった星野だが、小泉専門員は一定の評価をする。「開港後の横浜には有象無象の人や物が集まった。商人も数え切れないほどいたが、皆もうからないで、あっという間に駄目になった。十六年間とはよく続いた方だ」

 星野の名は、群馬に戻った後、「繭糸商」ではなく「光多の父」として知られるようになった。
 
 光多は父を追って横浜に行き、取引に必要な英語を学ぶため、宣教師ジェームス・バラのもとへ通った。やがてその教えに目覚め、洗礼を受けた。帰郷後は西群馬教会を設立するとともに、世界を舞台に教えを広めた。星野の妻るいも受洗。五女あいは津田塾大学の初代学長となった。〈道徳宗教などに関しては、固より無頓着冷淡を極めたりし〉(同履歴)という星野も、ついには洗礼を受けた。
 
 商売では夢破れたが、心の豊かさを知った星野は〈疲れたる旅人の眠りに就くが如く〉(同履歴)この世を去った。

(斉藤洋一)



 1838(天保9)年、戸鹿野村(現沼田市戸鹿野町)の名主を務める豪農の父、常右衛門と母なか子の長男として生まれる。55(安政二)年に父が病気となったため、17歳で家業を継いで繭糸、たばこなどを手広く商う。56年4月に妻るいと結婚。68(明治元)年に横浜に「星野屋」を開業し、外国人へ生糸を売り込む。
 73(同6)年3月の大火で堺町2丁目の店を焼失、南仲通りへ移転するというトラブルを乗り越え、同年5月に政府が横浜生糸改会社を設立した際には、計33人の有力商人の仲間入りをした。
 一時は財産を築くが、商売に失敗し、十数年の厳しい経営の末、84(同17)年に倒産。故郷では小規模の製糸所を設立、経営する。1901(同34)年に死去。




(上毛新聞12月9日掲載)