| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 36 加部 安左衛門 |
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東吾妻町の西部に位置する大戸は、信州・草津街道の宿駅と大戸の関所をひかえた交通の要衝地で、信州や越後からの物資が集中し、草津の温泉客、善光寺参詣路として栄えた。 加部家は、戦国時代末期から繭、特産の岩島麻、たばこの取引などで代々巨万の富を蓄えた。一七八三(天明三)年の浅間山大噴火の時は、五百両と米五百石を提供して救済の手を差しのべた。幕府に命じられ足尾銅山経営にかかわり千両を出資するなど、「上州の三分限者」として「一・加部、二・佐羽(桐生・佐羽吉右衛門)、三・鈴木(甘楽・鈴木重兵衛)」とうたわれ、その筆頭にあげられていた、と伝えられる。 十九世紀に入ると同地方も商品作物の栽培が盛んになり、加部家は「繭手」「麻手」などと呼ばれる生産農家に資金を提供したうえで、繭や麻を引き取るという商法で資産を大きくしていった。 同町文化財調査委員長の丸山不二夫さん(78)によると「年間二千両から三千両という膨大な額の繭を購入していた」という。その勢力は吾妻地区にとどまらず信州にまで及んでいた。 加部家に残された文書には〈使用人十三人から十五人に元金を持たせ、買い入れに向かわせる。一人に預ける資金は平均して百両。多いものには六百両から四百両を預けた〉と記されている。どれだけの繭を集め、いくらで売りさばいたかは不明だが、このほかに特産の岩島麻や麦など数多くの産物も一手に引き受けていたのだから、その財力は膨大なものだった。 十二代にわたって蓄えた財力を背景に一八五九(安政六)年、開港したばかりの横浜居留地に進出し、海外貿易を始める。扱った商品は、生糸、麻、たばこ、呉服など多彩。「横浜市史」には〈弁天通と南仲通に南面した角屋敷に加部安左衛門があり(中略)筋違向うの角屋敷が中居屋重兵衛〉との記述がある。加部家は中居屋よりも〈三月早く借地した〉とされており、加部家の対応の早さを物語る。 同年六月の「横浜町割図」では、中居屋の敷地よりも大きく描かれ、分店とはいえ政商・三井の四倍近い店舗面積を占めている。「加部・四百六十八坪、中居屋四百八十三坪」(同市史)とする文献もあり、上州の両商人の繁栄ぶりは群を抜いていた。当時、中居屋が「 銅(あかがね)御殿」と呼ばれたのに対して、加部の店は「加部長屋」と言われたと伝えられる。 だが、列強の圧力で開港したものの、輸出による品不足で国内経済が大混乱。それを鎮静させるためと旧来の問屋からの圧力で幕府は「五品江戸廻送(かいそう)令」を翌年に発令。生糸など主要品目は江戸の問屋を経由し、国内需要を満たしたうえで、余った分の輸出を許可することになった。これにより横浜の取引に品不足がおこった。加えて、「尊王攘夷論」の台頭で、横浜の各店舗に「汝等多く外国人と交易し我国真の利害を忘却し(中略)天誅(てんちゅう)を加えへき者なり」と張り紙されるにいたって〈当港を引退く者許多(あまた)是あり〉(一八六三年十月二十七日付「日本貿易新聞」)という混乱に陥った。 加部もまた、一八六四(元治元)年に横浜の店舗を閉めた。外国との慣れない取引と時代の大波のなかで翻弄(ほんろう)され「加部安」は横浜開港史に一瞬の輝きを見せながら表舞台から姿を消していった。 (湯浅博) 1829(文政12)年8月15日、11代安左衛門の長男として生まれる。文学に理解のあった祖父の意向で現在の東吾妻町原町の卓堂塾に学ぶ。俳諧で「琴堂」の雅号を持つ。また、馬庭念流の高弟としても知られ、文武両道を備えていた。 1858(安政5)年に11代目から家督を相続。翌年、開港したばかりの横浜居留地に店舗を構え、海外貿易に乗り出す。横浜から撤退した1864(元治元)年、家督を13代に譲り、隠居。その後は、現在の高崎市や長野県上田市に居住した。更級へ月見に行った紀行文「翫月(がんげつ)紀行」が残されている。 1894(明治27年)5月9日、高崎市で死去。64歳。 (上毛新聞12月16日掲載) |
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