「ぐんまルネサンス」 第2部
38 町田菊次郎
 
 町田菊次郎(町田英子さん所蔵)
 〈わずかでも先師・高山長五郎の志に添うものが得られたのは、心中深い喜び。命のある限り勤勉努力して先師の恩にこたえ、国家の恵に報いたい〉。一九一五(大正四)年、天皇・皇后両陛下に献上した著書「最近養蚕法」の序文で、町田菊次郎は養蚕伝習機関「高山社」の創設者である高山長五郎(一八三〇−八六年)への思いをつづりながら蚕業改良への決意を述べている。

 「救世済民は自分の天職」と言い続けた菊次郎の原点と長五郎との結び付きを伝える、若い日のエピソードが残っている。

 明治の初め、藤岡地域一帯は水利が悪く水田の利用ができなかった。そこで菊次郎は長野県の千曲川上流の水を神流川に引き入れて増水させ、大規模な土木工事を施した上で広大な水田を造成しようと構想。両川の上流地域を数年かけて測量した。

 しかし一八七四(明治七)年、この計画を知った埼玉県側に猛烈な反対運動が起こり、二百人ほどが凶器を携えて町田家を襲う事態になった。菊次郎は長五郎の家に潜んでいて無事だったが、この時、長五郎から「考えは分かるが、埼玉、長野側の水を奪う行為だ。一帯を桑園にして養蚕を興せば、水田にする以上のことができる」と諭され、心酔するようになる。

 襲撃事件から二年後、「養蚕改良高山組」(後の高山社)の授業員として各地を巡回指導するようになった菊次郎は、指導を通して訪れた地の資料収集、分析など研究も怠らなかった。社長の長五郎は、菊次郎の飼育技術と経営手腕を高く評価。病に倒れると、この二十歳年下の“一番弟子”を後継に指名した。

 菊次郎が建てた蚕室(兼母屋)が残る藤岡市本郷の町田家には堂々とした姿の写真が保存されている。ひ孫の町田英子さん(76)は「母から豪快なおじいさんだった、と聞いてきた」と話す。

 一九〇一(明治三十四)年、「高山社蚕業学校」が設立されると初代校長となって自ら生徒の薫陶に当たった。学校は、時代に対応した理論と実際を兼ね備えた養蚕技術者の養成を目的とし、中央から農学博士を招くなどして内容を充実。明治政府の実業学校令による甲種農業学校認可を得た全国唯一の学校だった。

 別科は養蚕業に携わっている農民を対象にした。入学者の年齢はさまざま。ドイツの手法を取り入れ、冬の農閑期に藤岡の本校で一般養蚕学を学ばせた。一般農民に教育の道を切り開くものだった。

 「経営者というよりは教育者肌の人だったのだろう。学校では物理、化学や経済など広く一般教養も取り入れた。多くに教育者として非凡なところを見せている」。元藤岡市史編さん室長の黒沢明彦さん(75)は、教育者としての後年こそ、菊次郎が本領を発揮した時期だったと話す。生徒は全国から集まり、中国、韓国からの留学生もあった。

 一九〇七(明治四十)年、高山社は最盛期を迎え、全国に六十二カ所の分教場、四万人の社員、千二百人以上の生徒を抱えた。

 〈教学緩ゆる(ゆる)すべからず〉。菊次郎の死から二十一年後の一九三八(昭和十三)年に市内の諏訪神社に建てられた頌徳碑しょうとくひ(しょうとくひ)には、常に向学心を持って学ぶことの大切さを説いて実践した菊次郎の言葉が刻まれている。

 「高山社の名を知らずして養蚕家にあらず」とまで言われ、全国に広まった高山式養蚕法。共通の養蚕方法として養蚕業の安定化ともに生糸の大量生産を可能にした。菊次郎が蚕業界に残した足跡の大きさは、先師・長五郎に勝るとも劣らないものだった。
(戸沢俊幸)


 1850(嘉永3)年、緑野郡本郷村(現藤岡市本郷)に生まれる。幼名・藤太郎。20歳で蚕種製造も行う家を継ぎ、農業に励む。75(明治8)年、高山村(現同市高山)の高山長五郎について養蚕を研究、翌76年、長五郎が組織した組合「養蚕改良高山組」の授業員として各地を巡回指導するようになる。巡回指導を通して養蚕研究も深め、85(同18)年、「高山社」と改称して事業を拡張するにあたり、社員の推薦により副社長に就任。長五郎没後には社長となり(86年)、事務所と伝習所を藤岡町に移して発展を図った。一九〇一(明治34)年には「高山社蚕業学校」を設立、初代校長に。充実した指導で毎年全国から千人を超える入学者があり、高山社の養蚕技術を全国に広めた。17(大正6)年、66歳で逝去した。

(上毛新聞12月30日掲載)