「ぐんまルネサンス」 第2部
40 山口正太郎
 
二代目山口正太郎(恒蔵)(右)と三代目山口正太郎(與市郎)=ともに山口昌子さん所蔵
 最盛期には社員約五千二百人、授業員二百七十五人に及んだ養蚕伝習機関「順気社」は、一八八七(明治二十)年九月、藤岡町(現藤岡市藤岡)に開業した。

 同町の一行寺で行われた開業式典には緑野、多野両郡長はじめ二百八十余人が出席した。社長となった二代目山口正太郎(恒蔵)はこんな決意を述べた。

 〈当社の目的は養蚕方法を錬磨して各地方に伝え、国を繁栄させる元をつくることにある。社の繁栄を続けてゆくことで、祝意に報いていきたい〉(同年九月二十日付群馬日報、意訳)

 設立のきっかけは一八八一年、東京・上野公園で開かれた第二回内国勧業博覧会で受けた屈辱だった。

 地元の緑野郡から出品された繭は出来が悪く、福島、長野産にはるかに及ばなかった。これに大きなショックを受けた正太郎はまず養蚕改良をと、宮内省御用係の佐々木長淳(ながあつ)を招いて「順気育法」の指導を受け、同士とともに順気社を組織した。

 明治の十年代から二十年代にかけ、養蚕農家の飼育法改良への関心を背景にして、高山社(現藤岡市)など多くの養蚕技術伝習機関が県内に設立された。順気社もその一つだった。

 二代目を補佐し、蚕業の改良発展に努めたのが、養子となった三代目正太郎(與市郎)だった。三代目の実家は佐位郡島村(現伊勢崎市境島村)の著名な養蚕農家。そこで培った技術を養家でより高めた。

 順気社が開業した翌年七月の上毛新聞は、同社の好調なスタートをこう伝えた。

 〈順気社の養蚕伝習所は、蚕季の気候が困難だったにもかかわらず?八十蛾付きの蚕卵紙四百五十枚を作ったが、諸方から注文が多くすぐに品切れになった。社員は祝宴を開いてこれを祝った−〉

 この年には研究所も設けられた。後に株式会社化された際の定款によれば、業務は@生徒への蚕業に関する学理、実習の伝習A教授員の派遣B飼育法の伝習を望む篤志者の入社C蚕種の製造、販売D肥料部を設け、希望する社員への売却、貸し付け−など多岐にわたった。

 さらに一九〇六(明治三十九)年には、中国(清)四川省から訪れた人たちに同社が春蚕飼育法を習得させたのをきっかけに、三代目正太郎は「清国産業啓発」のための日清蚕業学校を開校する。

 三代目のひ孫、山口秀夫さん(72)=藤岡市中栗須=宅には中国人留学生が写る写真と大理石の玉が残されている。

 「玉は、留学生たちが『お世話になるから』と本国から持ってきたもので、昔はいくつもあった。辛亥(しんがい)革命(一九一一年)で送金の途絶えた留学生を、正太郎は一年以上も世話をした、と父から聞いてきた」。山口さんは述懐する。

 在学した留学生は三十人を数えた。こうした順気社の試みを前橋国際大学の宮崎俊弥教授は高く評価する。

 「(先発の)高山社も留学生を受け入れているが、順気社の方が多い。当時の清は新しい産業を模索していた。隣人意識が高かったのか。このころから日中交流に役割を果たしていたことは、正太郎と順気社の特筆すべき功績ではないか」

 順気社に関する資料は極めて少ない。正太郎についても同様だ。養蚕指導者、技術改良者として活躍し、留学生たちに温かな目を注ぎながら、時代の流れの中で多くの借財をかかえ「銀行(藤岡銀行)頭取の地位も失うなどして不運な一生を終えた」(山口さん)という。

 本県の蚕業発展とともに社業を拡大し、ついにはその技術を海外にまで伝えようとした正太郎。その光と影は、本県蚕業史に際だった足跡を残している。

(戸沢俊幸)

 緑野郡中栗須村(現藤岡市中栗須)の養蚕指導者。「正太郎」は四代(養茂七、恒蔵、與市郎、猿三)にわたって襲名され、明治期蚕業界の先駆者として活躍した。特に二代目(恒蔵、一八二九−一八九六)、三代目(與市郎、一八五一−一九一八)の業績が知られる。

 二代目正太郎は一八七八年、養蚕改良の緑野会社を創立して社長に就任。順気育の伝習を受けて順気社を組織し、八七年に官許を得た。順気社は養蚕改良順気社と改められ後に研究所を付設した。

 一九〇八年、改称した順気蚕業株式会社の社長となったのが、佐位郡島村(現伊勢崎市境島村)の栗原家に生まれ、婿養子となった三代目。社業の拡張を図り、藤岡銀行(後の群馬銀行と合併)や緑野馬車鉄道会社の設立などにも貢献した。

(上毛新聞1月13日掲載)