| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 41 佐藤 量平 |
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組合製糸「下仁田社」(下仁田)の社長室に、こう書かれた額が掲げられていた。仏教哲学者で教育家、井上円了の揮毫(きごう)だ。 「論語」の「七十而従心所欲 不踰矩」(七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えず)の一節で、心のままにふるまっても、道を踏み外さない理想の状態を指している。 同社創立の一八九三(明治二十六)年から四十年にわたって社長を務めた佐藤量平が大切にしたこの額は、分家筋で量平の自宅跡の隣に住む佐藤準治さん(67)=南牧村磐戸=方に残る。 県立歴史博物館の企画展「群馬の肖像」の調査で準治さん方を訪れ、額を確認した同館専門員、手島仁さん(48)は「単なる金もうけではなく、領分を守り、倫理的精神を持って経営にあたっていた」と、量平の姿勢を分析する。 下仁田社は、共同揚げ返し工場による座繰り製糸組合の連合組織、「甘楽社」(富岡)から脱退した馬山(下仁田)以西の組合が結成した。地域に鉄道もなく、生糸運搬や資金受け渡しに不便な時代。創立初年度の参加は郡内二十七組合、組合員となった養蚕農家らは二千人余りだった。 社長となった量平は三十代半ば。各工場の完全な乾燥室設置、優良繰糸工女に対する賞金授与などで座繰り糸の改良を進めた。販売も米国直輸出を廃止し、横浜市場に一本化した。一九〇一(明治三十四)年の本社落成式では〈本社員タルモノ自今以後益協力其精品ヲ競ヒ予期ノ成績ヲ前途ニ奏シ以テ國家ノ幸福ヲ増進スルヲ期スヘシ〉(甘楽産業叢談)と組合員を鼓舞した。 社業は発展した。南三社(碓氷社、甘楽社、下仁田社の総称)の他の二社には及ばなかったが、「横浜市史」記載の〇二(同三十五)年の出荷数量は前橋を代表する製糸会社「交水社」を上回った。〇九(同四十二)年の販売数量は設立当初の四・七倍、所属組合は四県七十七組合に達した。 民俗学者の柳田国男は、〇七(同四十)年十一月発行の雑誌「斯民(しみん)」に、現在の下仁田町から甘楽谷に入った時の様子をこう書き残している。 〈娘共が他國に行きて工女ともならず、休の日には己が居村に在りて、友だちと遊び暮らすことを得るは、全く家庭工業の有難味なり〉〈組合の十分なる成功なり〉 その鏑川上流域の養蚕農家の生活を守るため、量平は営業税課税免除や経営刷新、器械製糸転換などに取り組み、直営模範工場を建てた。 量平は上野鉄道(現上信電鉄)社長や下仁田倉庫取締役も歴任し、重要産業である生糸輸送のインフラ整備に努めた。上野鉄道は生糸や繭、荒船風穴(下仁田)の蚕種を運び、下仁田倉庫は繭の乾燥や繭担保の金銭貸し付けを行い、地域に絹産業集積をもたらした。 下仁田社を退いたのは、世界恐慌の影響が農村に及んでいた三三(昭和八)年。繭価下落などで組合員に支払った繭の仮渡し金が過渡しとなり、農家の疲弊で回収も滞った。過渡しは赤字を示す「昭七の赤」「昭八の赤」の言葉に残るほど経営を圧迫し、融資を受けて模索した経営健全化策も実らなかった。 南牧村内に立つ量平の顕彰碑には、社長退任の際に〈蚕糸界の大恐慌により社の損失甚大のため責任を感じ巨額の私有財産を投じ〉と刻まれている。準治さんは言う。「一時は甘楽富岡随一の多額納税者だったが、全財産を失った。自宅に差し押さえの赤紙が張られたと聞いている」 私費投入は、量平にとって地域の産業を守る最後の手段だった。 (西岡修) 1858(安政5)年、北甘楽郡磐戸村(現南牧村磐戸)生まれ。幼少期に父母を失い、叔父の養子として育ち、旧七日市前田藩学校で学んだ。座繰り糸の粗製乱造を憂い、揚げ返し工場を設け、品質向上と利益増加に努めた。 93(明治26)年、下仁田製糸合資会社(後の下仁田社)の創立委員の1人となり、初代社長に就任。1907(同40)年には碓氷社、甘楽社の幹部とともに自ら米国を視察し、需要地の好みに適するよう生糸の改良、工夫を図り、声価を上げた。 県議に1885(同18)年から18年間在職。地元では10代前半で戸長となり、連合戸長、村議、村長、郡会議長などを歴任、地方自治にも足跡を残した。金融界では、下仁田銀行頭取、県農工銀行頭取を務めた。1951(昭和26)年、92歳で死去。 (上毛新聞1月20日掲載) |
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