| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 42 山口太三郎 |
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一九〇九(明治四十二)年、組合製糸「甘楽社」(富岡)が、加盟の座繰り製糸組合向けに「製糸法ノ注意」と題した小冊子(県史収録)を発行した。 そのなかで社長の山口太三郎は、組合員に対して生繭の乾燥など三点に留意した繰糸を徹底するよう指示し、こう警告した。 〈多数なる工女中には、未(いま)だ此(この)三要件を意に介せず甚だしき部外なるデニール、又は類節の多き物、 或(あるい)は粗製品を繰出する者あり〉〈糸主の損失を招き又需用者を減じ、遂(つい)には本社の不信用を来すなり〉 山口の社長就任以降、甘楽社の生糸はパリ万博(一九〇〇年)、セントルイス万博(〇四年)、リエージュ万博(〇五年)と連続して金賞牌を受けた。その一方で、冊子で指摘した粗製品などの問題も抱え、山口は品質向上に心を砕いていた。 甘楽社は、富岡甘楽地域の共同揚げ返し工場の組合が一八八〇(明治十三)年に共同出荷組織として設立した。この八年前に富岡で操業した官営富岡製糸場が当時最先端の洋式器械を使ったのに対して、甘楽社は改良座繰り器の優秀性を背景に養蚕農家の手作業による座繰り糸の生産・販売体制確立に成功。組合製糸の南三社(碓氷社、甘楽社、下仁田社の総称)の一角にあって、碓氷社に次ぐ地位を占めた。 南三社は明治後半まで、器械製糸各社を上回る生産高を上げ、品質も評価されていた。だが明治末期、生糸の均一化を求める機業家の要求が高まり、手作業の座繰り糸では対応が難しくなってきた。一方で器械は改良が進み、生産性が向上していた。 「横浜市史」によると、一九一一(同四十四)年、全国の器械化率は既に75%。加盟組合の小資本も影響し、甘楽社は器械製糸転換が遅れていた。 山口は転換奨励を決断する。 〈我(わが)座繰糸に代用すべき競争者が年を逐(お)ふて続出せるの傾向あるのみならず、近時物価の騰貴は座繰の工費をして器械繰糸よりも高価ならしむるの勢あり、旁々(かたがた)座繰糸は前途見込立たず〉 器械生糸の販売開始から三年後の一三(大正二)年、山口が経済紙「中外商業新報」紙上で説明した、当時の状況だ。山口は続けた。 〈上州南部の座繰は器械糸の名を冠して横浜市場に雄飛するを得べく其(その)時は 即(すなわ)ち在来の器械製糸と新競争を開始するの時期にして我等の奮励一番を要すべき時なり〉 山口は一九(同八)年、「原料繭受け付け制」を採用、さらに品質均一化を推し進める。 従来の「持ち寄り制」は、工場の生産設備を利用して、養蚕農家が自分の生産した繭をひき、生糸を組合に提供していた。繭が多様で製品統一が煩雑なうえ、器械が遊ぶ日も少なくなかった。 新制度では、農家の提供する繭を組合が混合、繭の品質をそろえて製糸する。南三社に対する県の勧めもあり、甘楽社は特別積立金を取り崩し、制度を実行した組合に奨励金を支給した。「エキストラ」格の良質な生糸が市場で好評を得た。 富岡市立美術博物館長の今井幹夫さん(73)は「近代化に尽くし、原料繭受け付け制の確立によって、組合製糸が当初構想した形態にたどりついた」と、山口の功績を評価する。 二〇年(同九)年に退任。死去直後の追悼録「山口太三郎翁の面影」で、編集に当たった当時の副社長、岡部栄信(一八八六−一九六五年)はこう悼んだ。 〈社業を見ること宛然(えんぜん)自己の事業の如く部下を慈しむこと慈母の赤子に対するが如くでありました〉 (西岡修) 1848(嘉永元)年、北甘楽郡南蛇井村(現富岡市南蛇井)生まれ。農家に育ち、熊谷学校に学んだ。75(明治8)年に教員となり、現在の下仁田町内の小学校に勤務した後、農蚕業に従事した。 84(同17)年、北甘楽精糸会社(後の甘楽社)加盟の南蛇井組の組長に選ばれ、90(同23)年から同精糸会社取締役、副社長を歴任し、97(同30)年、第5代社長に就任。日清戦争後の財政政策として発布された営業税法に対する課税免除運動、新社屋建設に取り組むなど、経営安定に努めた。 1907(同40)年、旧官営富岡製糸場建設を担ったポール・ブリュナとともに大日本蚕糸会から金賞牌を受賞したほか、各賞や褒章を受けた。地元の連合村議、旧吉田村長などを歴任した。22(大正11)年、74歳で死去。 (上毛新聞1月27日掲載) |
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