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林業経営 
新井 寛さん
(藤岡市上日野 )

 【略歴】日本大学土木工学科卒。高崎市内の建設会社に9年間勤務した後、家業の林業を継ぐ。多野藤岡地区林研グループ連絡協議会会長、県林研グループ連絡協議会副会長などを歴任。


経営の限界を超える

◎木材生産

 職業を聞かれ、「林業」と答える。「リンギョウ…?」。何度か聞き返されることが多く、一度で判断する人は少ない。頭に「農」を付けて「農林業」とすれば、大抵の人に分かってもらえるが、農を営む手腕や技術を持っていないので、もっぱら林だけを経営の柱にしている。

 近くにある自動車整備工場の敷地内の草刈りを頼まれた時も、仕事の内容を尋ねられたので、「山林(ヤマ)に木を植えて育てて、伐(き)って出して市場へ運び、売って金にして暮らしている」と答えたら、不思議な顔をしていた。工場の周りは、杉などの針葉樹が植えられた黒山で景観を占められているが、彼らが黒山に特に注目し、関心を持つことは無いし、山林と生活との結び付きなどを理解できないであろう。

 かつて造林が盛んに行われた昭和三十年代の木材価格を評価してみると、杉の立木で一石売ると、十人以上の人を雇えたそうである。戦争で物資を使い果たし、あらゆる物が欠乏していた時代、供出伐採を免れて残った山林、森林木に国土の復興、生活再建のための物資の供給が強く要望された結果、材価は高騰し、枝葉まで林内から持ち出されたことを記憶している。

 当時の山村の生活は、田畑を耕し、食料を自給する傍ら、林木の伐採搬出、苗木生産から植林、植栽後の下刈りなどの保育、薪炭(しんたん)生産などの仕事に携わり、収入を得て生計を立てていた人が多い。

 決して楽で豊かなものではなかったが、人々は毎日顔を合わせ、言葉を交わし、樹木の成長を楽しみに、みな林業のプロとして山林に依存しながら暮らす、にぎやかで明るい風景があった。同時に、植物学、森林学の権威者たちは、林業誌等に登場しては自論を展開し、講演を重ね、林業経営の振興をたたえ、植林を奨励していった。現在の木材事情を予測し、異論を唱えることは無かった。

 やがて経済が回復し、向上安定してくると、人々の生活に豊かさと余裕が生まれ、住環境の改善や住宅不足の解消へと要求は高まっていった。絶対的に不足していた国産材を補うべく、外国産木材の輸入が解禁されたのも政策上、当然の帰結であった。

 しかし、一度解放された門戸は、新たな制限を受けることなく次第に緩和され、原木から半製品、完成品へと際限無く拡大してゆき、市場を席けんしていった。輸入自由化に伴い、建築工法、住宅様式が変わり、さらに人々の好みまで変わってしまったのである。

 山林を利殖や投機の対象とし、将来に夢を描き、人工林に替え、山造りして得た結果、国策に沿ったとはいえ、今日の木材不況を招いてしまった事実を嘆き、窮状を社会に訴えても、林家のエゴとしか映らず、理解を得ることはできない。

 だが、国内消費量の八割以上が外材で占められ、一方、植林から半世紀を経て伐期を迎え、需要に応じるべき森林が伐ることも売ることもできず放置されている現状を見ると、複雑な気持ちである。

 ちなみに現在の材価では、市場に持ち込んで五石売り上げても、労賃一人分程度である。すでに木材生産を目指した経営は、限界を超えてしまった。

(上毛新聞 2002年1月17日掲載)