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詩人・作詞家 
古舘多加志さん
(富岡市下黒岩)

【略歴】本名は俊(たかし)。東京で生まれ、甘楽町で育った。明治大学卒。元東京新聞記者。在学中から童謡や歌謡曲の作詩に取り組む。94年から県作詩作曲家協会会長。日本童謡協会会員。他の筆名にだて・しゅん。


手本の歌謡詩

◎時代背景を浮き彫り

 私に詩心が生まれたのは、いつだったのだろうか。『空』という歌題のホームソング調の詞(ことば)を、ノートにメモったのは学生時代の一九五五年ごろ。歌謡詩のジャンルに関心を寄せた要因に、詩性の強いラジオ歌謡(NHK)が影響していたと思う。

 この世界へ足を踏み入れて以来、やがて半世紀を迎える。これといった作品を送り出せず、もがき続ける私が今なお、お手本としている数々の歌謡詩がある。凝縮された「詞」から、にじみ出る詩情、ドラマチックな人生模様を映し出し、「起承転結」が整っている。

 発表時の時代が前後するが、ラジオ歌謡から記してみる。確か同年の一月、声に響きのある伊藤久男が歌っていた「ひとりみやこへ/発つ朝の」の歌詞で始まる『母あればこそ』(詞・寺尾智沙、曲・田村しげる)は、脳裏に焼き付いている。

 また、同年に放送の『子犬のペス』(詞・西沢爽、曲・高木東六)は、作詩者の心情がストレートで伝わる玉筆だ。この三年前ごろに流れた『麦踏みながら』(詞・関根利根雄、曲・玉利明)は、寒風の中、郷里の甘楽町で父親と麦踏みしながら、よく口ずさんだのを想起する。

 さて「恋歌」に移す。大正年間の『ゴンドラの唄』(詞・吉井勇、曲・中山晋平)や昭和三年の『君恋し』(詞・時雨音羽、曲・佐々紅華)、同二十七年の『別れの磯千鳥』(詞・副山たか子、曲・フランシスコ座波)の類似点は、歌詞が“七・五”調の四行で構成されている。恋する思いをぎりぎりの「詞」で詠じ、曲がそれに反応した名作だ。

 鶴田浩二が熱唱した『好きだった』(詞・宮川哲夫、曲・吉田正)=同三十一年=は、語り口調の分かりやすい流れだ。「好きだった好きだった/嘘(うそ)じゃなかった好きだった/こんな一言/あの時に言えばよかった(以下略)」。「抑える恋なんて平成の世に通用しない」と、現代っ子に一笑されそうだが、恋慕は辛(つら)くて苦しいものなのかも。

 時代背景を浮き彫りにする歌に『岸壁の母』(詞・藤田まさと、曲・平川浪竜)=同二十九年=が。「母は来ました今日も来た/この岸壁に今日も来た」―舞鶴港での引き揚げ船に、愛息の姿を待つ母親の切なる思いをつづった名歌詞だ。台詞(せりふ)は別として三番までの構成が光る。最初、菊池章子が歌い、二葉百合子の“お箱”でもある。

 「どこかに故郷の香りをのせて/入る列車のなつかしさ」―『ああ上野駅』(詞・関口義明)は、前者から十年後に出た。当時、中卒者は“金の卵”としてもてはやされた。都会に職場を求めて集団就職した、田舎っ子の「心の駅」を表現している。作曲者の故荒井英一先生には、私が作詞の『上州新情緒』で“付曲の衣”を着せてもらった。他の作品では『公園の手品師』『山の吊橋』『人生の並木路』『再会』『山蔭の道』などについて触れてみたかったが、この辺で。


(上毛新聞 2002年2月2日掲載)