視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
新田町文化スポーツ振興事業団文化振興係主事
 原田憲さん
(伊勢崎市波志江町 )

【略歴】横浜市生まれ。愛知県知多郡で育ち、米国テネシー州立大経済学部卒。東京日本橋の損害保険会社に就職し、外航貨物海上保険損害調査部門に所属する。96年から現職。


明日はあるか

◎日々の努力を忘れずに

 せつな的な行動が引き起こす凶悪犯罪、交通事故死亡者数一万人に対し自殺者数三万人という現状、組織のリストラによる雇用不安、六六〇兆円を超える国と地方の長期債務残高、株安と人口減少にともなう公的年金システム崩壊の足音。

 モラルと社会基盤の崩壊により、われわれは先が見えない閉塞(へいそく)にさいなまれている気がする。すべてが被害者意識に染まり、切磋琢磨(せっさたくま)が死語となり、自分の主義主張ばかり唱え、人と接することを極度に嫌う現代人。個人的な妄想かもしれないが、ジャパンミラクルとまで言われた経済成長を成し遂げ、勤勉な労働倫理と優れた価値観が支配し、相互扶助の道徳観を備えた日本人は、いったいどこへ行ってしまったのか。街角から「明日があるさ」と聞こえてくる歌が、妙にむなしく心に響くのは私だけではないであろう。

 われわれ一九六〇年代生まれの世代は、幼少期に敗戦を体験した親から生まれた人間である。われわれは高度経済成長の中で教育を受け、バブル経済真っただ中で思春期を過ごし、経済的価値観が最も崇高なものであると信じていた。学校は受験戦争というお題目を掲げながらも平等主義を唱え、個性よりマニュアルに沿った「協調性」を尊重した。しかし近年、社会は一転した。協調性より独創性が偏重され、社会は実力が無い者、明確なビジョン(将来像)を見いだせない者は、容赦なく淘汰(とうた)される時代となってしまった。社会に競争原理が導入され、護送船団方式は崩れ去り、実力主義の倫理が台頭した。昨年の常識が、今日は非常識と変わってしまったのだ。

 義務教育では四月から「ゆとり教育」路線を始め、個性ある人間を創出しようと計画している。しかし、子どもの教育指針を提言する前に「大人の教育」が必要ではないか。つまり、前述のような時代背景で育ち、現状に対応できない大人や老人ばかりの日本人に、果たして「ゆとり」を教育できるのか。

 子育てとは、辛抱強くしつけて矯正し、徹底的に基礎教育・教養を身につけさせて、社会常識の型に無理やりはめる作業であると思う。ある哲学者が「子どもは無知なる野蛮人である」と言ったように、野蛮人であるからにして、教える側にとっては未曾有(みぞう)の労力と、さまざまな人生経験を提供しなければならない。個性と創造性は、良識有る親と教育者が充実した基礎教育を与え、豊かな地域住民が存在して初めて生まれるものであろう。

 人生は経営学の基本である「妥協と訂正」の連続であり、時として経済学で言う「機会費用」が必要となる。真実は一つかもしれないが、正解は一つではない。大人は仕事にプロ意識を持ち、よく働き、よく勉強し、芸術やスポーツなどのゆとりを持って希望ある人生を送るべきだ。

 「道心の中に衣食有り。衣食の中に道心無し」と言うように、どう生きるかという理念が先にあって初めて衣食がついてくる。人の一生は思っているほど長くない。日々の努力を忘れた社会に「明日がある」とは滑稽(こっけい)だ。


(上毛新聞 2002年2月10日掲載)