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詩人・邑楽町立図書館長
 長谷川安衛さん
(邑楽町中野 )

【略歴】群馬大教育学部卒業後、教職に就く。在学中より詩作を始め、詩集などの著書多数。日本現代詩人会、群馬県文学会議、群馬ペンクラブなどに所属。94年から同図書館長。



メディアリテラシー

◎主体的に判断する力を

 先日、図書館へ何回か調べに来た小学校六年生の子どもたちから、招待状を頂いた。総合学習の発表会を開くので見にきてほしい、というものであった。当日の子どもたちの発表は、従来の発表形式のグループもあったが、いくつかはパソコンを操作して、プロジェクターでスクリーンに投影しながら発表するというものもあった。教師の丁寧な指導もあったと想像されるが、子どもたちのパソコンを使った発表はなかなか見事なものであった。子どもたちの表現手段として、パソコンもその内に入った、ということをあらためて認識させられた。

 地域の情報拠点である図書館の仕事をしているので、「情報」という言葉には敏感にならざるを得ないのだが、最近新聞やテレビで「メディアリテラシー」という言葉を使った記事や番組を目にすることが多くなった。

 その背景には、今開かれている国会に、「青少年有害社会環境対策基本法」などの法案の提出が検討されているということもあるようだが、法案の趣旨は「情報・表現が有害か否かを大臣、知事が判断し勧告・公表する」というものであると聞いている。暴力シーンなどの過激なものに触れ過ぎると弊害が起きるから、行政で規制しようとする発想のようである。

 一方、教育現場ではメディアリテラシー教育への関心が高まりつつある。メディアリテラシー教育というのは、メディアが発信する情報を、受け手がうのみにせず、主体的・批判的に読み解く力や表現する能力を、育成しようというものである。

 総務省で示しているメディアリテラシーの定義は、(1)メディアを主体的に読み解く力(2)メディアにアクセスし活用する能力(3)メディアを通じてコミュニケーションする能力―であるが、これはメディアという言葉を別にすれば、従来行われてきた主体的な学習そのものにほかならない。

 現在、情報をその発信源から規制しようとする動きと、情報を主体的・批判的に受け止め、読み解く力や表現する力を育成しようとする動きが同時に進行しているということになるが、情報は表現と表裏の関係にある。われわれがいちばん警戒しなければならないのは、情報がだれかの手で操作されることであり、人間の基本的な権利である表現の自由が政治的に規制されることである。

 表現されたものに対する価値判断は、メディアに限らず本来多様なものである。それを特定の価値観によってふるいにかけようとするのは、危険な行為であると言わざるを得ない。今われわれがしなければならないのは、情報を主体的・批判的に判断する力を自ら育てることである。それが情報化社会を生き抜くため必須条件である。そうした意味でメディアリテラシー教育に期待したい。それは学校教育に限らず、公民館などで盛んに行われているIT講習などと並行して、成人教育の場でも多く取り入れなければならないと思う。



(上毛新聞 2002年2月26日掲載)