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民俗研究家 板橋 春夫 さん(伊勢崎市今泉町 )

【略歴】国学院大学卒。76年、伊勢崎市役所に入り図書館、市史編さん室、公民館を経て、98年から文書広報課。80年に群馬歴史民俗研究会を設立し現在代表。98年から日本民俗学会理事も務める。


ヒノエウマと粕川村

◎俗信の撲滅へ孤軍奮闘

 今年はウマドシ(午年)である。三十六年前の昭和四十一(一九六六)年、「ヒノエウマ(丙午)」という目に見えない黒い霧が、日本の母と子を覆い包んだ。その結果、同年の出生数は百三十六万九百七十四人、前年比26%減であった。翌四十二年の出生数は百九十三万五千六百四十七人となり、五十七万人も増えている。ちなみに明治三十九(一九○六)年のヒノエウマにおける出生数は前年比5%減であった。

 青島幸男の直木賞受賞作『人間万事塞翁が丙午』は、明治三十九年生まれの母親がモデルの小説である。作品では、火事をはじめ不幸なことが起きると、ヒノエウマが災いの原因とうわさされる。

 当時、国や自治体は全国的に騒がれたヒノエウマに手をこまねいていた。その中で正面から立ち向かった自治体があった。勢多郡粕川村である。若い村長の金子裕さんは、ヒノエウマ俗信の追放運動に積極的に取り組んだ。実は彼の母も三十九年のヒノエウマ生まれで、その俗説に苦しんだ一人だった。

 粕川村母子健康センターが中心になって、赤城山ろくの富士見村・城南村(現前橋市)・大胡町・宮城村・粕川村・新里村・黒保根村・東村(以上すべて勢多郡)の一町七村でアンケート調査を実施し、ヒノエウマは根拠がないことを状況証拠的に証明した。

 この調査結果に基づいて、粕川村は『母子保健と迷信』という小冊子を作製・配布した。サブタイトルは「ひのえうまの迷信を解消するために」で、ヒノエウマ俗信は不測の事故でもなければ、天災でもない。朝に晩に顔を合わせている人間がつくり出した災害、すなわち人災であるとした。

 このように粕川村では、基本的にヒノエウマは人災であるとし、因習打破を大きな目標に掲げながら、昭和四十一年のヒノエウマ対策を積極的に展開した。金子村長は、ヒノエウマ俗信を撲滅するために孤軍奮闘した二カ年に及ぶ活動を顧み、「戦いの結果はドンキホーテだったかも知れません」と述べた。ヒノエウマが全国を席巻する潮流の中にあって、保健婦らの努力と宣伝にもかかわらず自村の出生数の激減をくい止められなかった。これはヒノエウマ俗信の根強さと世間並み意識の結果かもしれない。

 昭和四十一年のヒノエウマは、マスコミの宣伝などによって真実味を帯びた話として定着し、人々が忘れかけていた過去の伝承を情報媒体による再生産という形をとった。ヒノエウマ俗信を信じるかどうかは「個人」の領域であるが、出産行動に直接かかわる大問題である。近代医学は、科学的根拠の薄い俗説として排除すべきヒノエウマに直接対決することなく、むしろ受胎調節技術などを通じて出生率の減少を支えるという、皮肉な巡り合わせを演じてしまった。

(上毛新聞 2002年3月18日掲載)