視点 オピニオン21
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ライター・エッセイスト 橋本 淳司 さん(館林市代官町 )

【略歴】学習院大文学部卒。「水と人」をメーンテーマに新聞・雑誌やネット上で執筆活動を行い、著書を出す傍ら、企業取材を通じ起業、経営の在り方を学ぶ。ネット上の企画オフィスを主宰。

水に流す日本人

◎「丸く収める」は現在も

 政治家の不正、企業の不祥事など、悪いニュースが新聞紙面に掲載されない日はない。新聞を開いてもすぐに閉じたくなる。だから悪いニュースは一面に掲載される、という話もある。

 事態への対応のまずさが事態をより深刻にする。事の真相、責任の所在は明らかにされない。対応は後手にまわる。その場しのぎのうそがまかり通ることもまれではないようだ。

 これらの根幹にあるのは、日本人独特の「水に流す」という発想だろう。日本人は、もめ事が起きても、議論を尽くして決着をつけず、すべてをなかったことにするという特技をもっている。厳しい責任の追及や執拗(しつよう)な抗議は行わず、他人に寛容であることをよしとしてきた。

 なぜ、「水に流す」という考え方が身についたかと言えば、これは稲作に関係する。稲作は一人ではできない。共同作業が必要だ。共同体で同じ川から水を確保し分配した。それだけではない。たとえば誰かが病気で休んだら、その時は、隣近所の人が交代で作業した。自分もいつか休むことがあるかもしれないから、「お互いさま」というわけだ。だから自分勝手な行動はせず、共同体を維持することを最優先させた。仮に問題が起きても、村長は丸く収めた。迷惑をかけた分の責任はとらせるが、しこりが残らないよう、ほとんど和解だった。つまり、水に流したのだ。

 この精神のもとになった「助け合う意識」は希薄になってしまったが、「事を荒立てずに丸く収める」という部分は現在まで引き継がれている。新聞をにぎわすような事件に限らず、私たちは年中、水に流している。政治家や官僚、企業社長の行動も一面においては他人事ではない。昔のように小さな共同体の内部だけで生活が完結していれば、それはそれでよかったのかもしれないが、さまざまな価値観をもつ共同体同士のコミュニケーションが不可欠な現代社会においては、水に流すのではなく、きちんと説明し、分かり合うことが求められる。

 ところで、「水に流す」という発想は、言葉の通り、そもそも流せる川があってこそ生まれるものだろう。日本の川は流れが速い。日本の地形は急峻(きゅうしゅん)で流域面積は狭い。急勾配(こうばい)を駆け降りる日本の河川は総じて急流だ。ヨーロッパのライン川やドナウ川は平野部をゆっくり流れる。水面を見ても流れているという印象はない。雨が降ってようやく水の流れを確認できるようになる。以前セーヌ川が凍ったことがあったが、それも流れの遅さゆえだ。明治時代半ば、来日したオランダ人技術者のデ・レーケは、日本の川を見て、「これは川ではない。滝だ」と言ったという。日本の川の流れの速さを物語るエピソードだ。

 流れが速いとごみを捨ててもすぐ目の前から消えてしまう。雨が降り土砂で濁ってもすぐにきれいになる。これを見た昔の日本人は、川はごみなどの物質的な汚れだけでなく、精神的な穢(けが)れも洗い流すと考えた。罪や穢れを流す儀式を「禊(みそ)ぎ」というが、これは「水そそぎ」の略で「身をそそぐ」という意味もある。水は都合の悪いもの、汚いものを流してくれるものだった。

 ただし現在の日本の河川は汚濁が進み、浄化能力は著しく低下している。土砂が流れ込み、流れが以前ほどではなくなった川もある。昔のように捨てたごみがすぐに目の前から流れ去ることはない。物質的な汚れも精神的な穢れも「水に流す」ことはできなくなってきた。


(上毛新聞 2002年5月28日掲載)