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高崎・歴史的建造物案内人 
平野 博司さん
(高崎市飯塚町 )

【略歴】高崎市出身、72年、中央高校卒。家業の平野工務店に入社、40歳で前橋工業短大卒業、日本製粉高崎工場、旧高崎市庁舎、井上邸などを調査。
ース・システム開発部総括部長、1994年から新幹線通勤。前橋中心商店街の活性化を考える会会員、波宜亭倶楽部理事。
バイオリン演歌


◎批判精神は今も通じる
 超低空飛行しながら、また迷走を始めてしまった日本号。その行く末を案じている人は多い。私も乗組員の一人であるが、外の様子は分からない。ダッチロールを起こしているのか、乗り物酔いになりそうである。

 最近、私は一九六○年代末から七○年代初めに起こった関西フォークムーブメントがひどく懐かしく感じられる。音楽そのものは、後に高名な批評家などによって徹底的に論理的に批判しつくされたものであるが、私は現在でも十分通用する内容であったと怒っている。

 さかのぼれば、時の為政者からの弾圧などを批判し抵抗した音楽は世界中にあったわけで、日本でも音を表現しだして以来、いわゆる庶民の音楽はさまざまな形で国中に存在していた。明治からは文明開化により日本に入った西洋音楽に影響を受け、庶民の音楽もさまざまに形を変えた。

 そんな中、自由民権運動の嵐の中、生まれた音楽に演歌がある。それは反政府の立場で政治や資本家を批判した詞にメロディーを付け、分かりやすく広めたもので、演説の歌から演歌となった。多くは伴奏にバイオリンを使った。

 その中の一人に添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)がいる。添田は軍歌『日本海軍』を替え歌にした『わからない節』では「ああわからないわからない、今の浮世がわからない。文明開化と言うけれど表面(うわべ)ばかりじゃわからない」と歌う。また『ああ、金の世や』では「ああ金の世や、金の世や、地獄の沙汰(さた)も金次第、笑うも金よ、泣くも金、一も二も金、三も金」と歌う。唖蝉坊は、一説に群馬の山奥で亡くなったとある。誰か詳しいことを知っていたら教えてください。

 唖蝉坊の子は添田さつきといい、主に大正時代に多くの曲を作った。パイのパイのパイで有名な『東京節』は、さつきの作品である。これらの演歌は大正時代からのレコード録音の普及や、中山晋平らの本格的新進作曲家の台頭により、その数を減らしていったが、そのすさまじい批判精神は今でも通じるものがある。

 時代的スケールは異なるが、一九七○年前後に力強く咲いたプロテストソングブームは、明治・大正の時代に咲いたバイオリン演歌によく似ている。もっとも高田渡は唖蝉坊が当時の流行歌のメロディーを借りての曲作りをしていたことを踏襲し、唖蝉坊の詞をアメリカのフォークソングやトラディショナルソングに乗せて歌っていて、共通点も多い。また岡林信康に加川良や友部正人、遠藤賢司にシバ、ディランなどはデビュー当時からすごいエネルギーで歌っていた。今より歌い手と聴衆の距離が近かったように思う。これらの楽曲は歌い手はもちろんのこと、聴いていた人たちもパワーがあった。今みたいに猫も杓子(しゃくし)も音楽好きという時代ではないときに、ボサボサの長髪に汚れたジーパン、穴のあいたズックという、きれいでない格好をしていた。今みたいに長髪やジーンズが市民権を得ていないころだから、先人たちの努力はいかほどか。英米音楽でのビートルズやボブ・ディランたちの音楽から触発された既成概念打破の精神を、彼らは日本の地で、また別の形で具象化したと私は思っている。結局、彼らの音楽は大部分が一般的な人たちには受け入れられなく(音楽性に問題もあったが)、形としては消滅していったようである。ただ、聴いていた人たちは純粋に彼らの価値観や、エネルギーに猛烈な影響を受けていたから、当時の火種が体の奥深い所にくすぶり続けているはずである。

 それら七○年代の士(さむらい)は今、何をやっているのだろうか。私が個人的にうれえることだが、おそらく普通の、当たり前の生き方はしていないはずである。今、こんな世の中なのだから一人一人何かできないか。かつての自由民権運動の中から生まれたバイオリン演歌、また全共闘などの学生運動真っ盛りの中から生まれてきた日本のプロテストソング。なんか、不況真っただ中の現代にも新しいリバイバルソングが生まれる気がする。実は私も、ギターや三味線を伴奏に、〜さりとはつらいね、てな事おっしゃいましたかねえー〜、などと日夜歌っています。では、また。

(上毛新聞 2002年6月21日掲載)