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ケアホーム「家族の家新里」施設長 
渡辺 高行 さん
(新里村新川 )

【略歴】専修大経営学部卒。県内の老健施設勤務後、95年に痴ほう性老人のグループホーム「ケアホーム『家族の家新里』」を設立した。県痴呆(ちほう)性高齢者グループホーム連絡協議会副会長。
最期の場所


◎「病院以外」の人が増加

 S先生、今日三回目の往診。先生は家族に今日中にも危険であることを説明する。午後七時、呼吸不全。S先生四回目の往診。危険な状況であることを家族に告げる。午後九時、遠方の子供たちが到着する。それから一時間後、呼吸停止。家族が「お母さん頑張れ」と呼びかける。その声に反応するかのように二回呼吸をするが、また停止する。心肺蘇生(そせい)を行わないことが家族の希望であったが、再度確認する。家族は全員が「かわいそうだからしないでほしい」と希望。S先生五回目の往診。Sさんの死亡を確認。九十二歳の安らかな死であった。その後、職員が死後処置を行う。初めて経験する職員もいたが、全員がSさんをいとおしむように、最後のお世話をさせていただき、お別れすることができた。

 人は生まれた瞬間から死に向かって歩き始める。確かに死は避けられないものである。だからこそ、どこで、どのように最期を迎えるかが大切になってくる。「家族の家」は二つの重要なテーマを掲げている。一つがどのように生きるか(生活するか)であり、もう一つがどのような死を迎えるか(提供するか)である。それを選ぶのはご本人やご家族であり、ホームはその助けをする。

 昔、最期の場所は自宅であった。それが、いつしか病院が死に場所として圧倒的な地位を占めるようになった。しかし、この現実は、圧倒的多数の方が、その抱えている個々の状況に関係なく、病院で最期を迎えていることを意味する。

 そして、さらに付け加えるならば、当事者としては病院以外の選択が極めてできにくいということである。

 すなわち、病院自身が患者の状況や家族の思いとは関係なく、それが当たり前ととらえてきたこと。そして、医者と患者(家族)は対等な立場ではなく、治療を受ける側として、他の場所を求めることは非常に勇気の要ることであり、たとえ、自宅に帰ったとしても、家でみとることの不安は相当なものである。それならば、機械や管に囲まれている現実に疑問を持ちつつも、妥協する道を選んでも無理からぬことと考えるほかはない。

 ただ、最近は病院以外のみとりの場を求める人が、少数ではあるが増加している。自宅に帰り、家族に囲まれて自然な形で逝くことができれば、死のルネサンスとしての価値を見いだすことができるであろう。私たちは、病院を望まず、かといって、自宅では難しい方のために、自宅ではないが自宅に近い形で自然な死を迎えることができるように、「家族の家」をみとりの場として位置付けてきた。そして、現実に何人もの方をみとってきている。

 ただ、自宅であろうと、「家族の家」であろうと、在宅医療に懸命に取り組んでいるS先生のような存在が絶対条件となる。そのような医師は、決して多いとは言えないかもしれないが、必ずいると信じている。S先生のような人が街のどこにでも開業している時代がくれば、死の形も確実に変化するのではないか。そのためにも「家族の家」はみとりの場であり続けたいと思っている。

(上毛新聞 2002年6月25日掲載)