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県温泉旅館協同組合理事 高橋 秀樹 さん(伊香保町伊香保 )

【略歴】明治大大学院修了。県内温泉地で修業した後、83年から家業の旅館「美松館」を継ぐ。若手経営者の一人として旅館協同組合、観光協会の理事、監事を務める。01年から伊香保小PTA会長。

3つの浴望の街 



◎表情豊かな温泉地へ

 有楽町の駅を降りた時のことである。プーンといいにおいがする。駅前の立ち食いそば屋かららしい。つい立ち寄っての一杯を食していると、隣には外国人。器用にはしを使ってそばをすすっている。食べ終わると「ゴチソウサマデシタ。オイシカッタデス」の一言。すかさずカウンターの中から「さんきゅう、べりいまっち」と威勢のいいお兄さんの声。辺りに思わず笑いがこぼれる。「イキだなあ」と私の感想。

 ここには何のわだかまりもない。お客さんと店の人との交流が存在している。その見事なさりげなさが、とてもうれしい。心からはじけるような、とっさの一言が両者ともに小気味よい。気持ちが、しっかりとかみ合っているからだろう。「イキ」とは心イキであり、イキが合うということなんだと思う。国際都市・東京の片隅に、和やかな江戸の顔を発見したような感を得た。

 もう一つの体験―地元・伊香保のある旅館の御主人から、宿泊客を対象に胡弓の演奏会をするので聴きにこないか、というお誘いを受けた。お客さまに交じって、その旅館の庭園を利用した夜のミニコンサート会場で、胡弓を堪能する機会を得た次第である。その明澄で高雅な音色に包まれながら、しばし地元にいることを忘れ、不思議な旅情、旅愁に浸っている自分に気づいた。たきしめているわけでもないのに、香(こう)のかおりが立ち込めているような、繊細な雰囲気が漂う。自分の住んでいる町でありながら、はるばると漂泊の旅に出たような気分。何とも安らぎに満ちた体験であった。

 日ごろ、旅館を営み、観光地に住む者にとって、この二つの体感から得られた教訓がある。それは、与えられた日常のありきたりの場所や空間、そして雰囲気というものをいかに劇的な世界を創造し、再構成していくか、ということである。これは何もお金や労力をかけてする大事業ではない。では、いかにして?

 私はかねがね伊香保町の顔は、三つの表情を持っていると考えている。訪れる人にとっては「三つの浴望の街」(欲望ではない)ということだ。一つは何よりも温泉浴。名湯の恵みを、存分に楽しんでもらうことはいうまでもない。二つめは森林浴。夏は緑の色と薫りに、秋は赤や黄色のプリズムに身をさらしながらの旅。そして三つめは「人情浴」。旅館にいても、石段街を歩いても、土産物屋をのぞいても、いつでも柔和で豊潤な人の情が感じられる街。要は人間的体験である。

 フランスの作家J・グリーンは、人間にとって二つの現実があるという。一つは通俗的な意味の現実。もう一つは「ビジョンの現実」―すなわち心の目に映る現実である。その土地を訪れた時、心に刻印された印象―心象こそ、後々までその人の頭を支配する現実に昇化される、ということなのだと思う。お客さまにとって、観光地は心のイベントである。会場となるわが街と、その内容の「式次第」を住民である私たちが心豊かな気持ちで整え、さまざまな表情を見せる温泉地になるよう心がけていきたい。

(上毛新聞 2002年7月3日掲載)