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自治医科大学講師 茂木秀昭 さん(栃木県南河内町 )

【略歴】館林高卒。慶応大学、コロンビア大学大学院修士課程修了。京都ノートルダム女子大文学部講師を経て現職。著書に「ザ・ディベート」(ちくま新書)、「論理力トレーニング」(日本能率協会)など。

国語教育



◎論理的な思考の訓練を

 現在ビジネスや一般向けとして、論理的に思考し、表現する方法に関する書物が一種の流行のよう多数出版されている。長引く不況と能力・業績主義の導入によって、多くの社会人が論理的な思考・表現能力の必要性を認識し出した証左でもあろうが、裏返せばそうした能力の養成をこれまであまり学校教育の中で行ってこなかったことを浮き彫りにしているとも言えよう。
 
 たとえばイギリスの国語教育では、話したり自己を表現することに重点が置かれ、意思の効果的な疎通と考えを発展させるための国語能力養成という目標のもとに、小学校からプレゼンテーションやディスカッション、中学校ではディベートやミュージカルなどを段階的に導入している。
 
 日本でも新学習指導要領において、伝え合う力の養成といったコミュニケーション重視の姿勢を打ち出してはいるが、まだまだ実態との乖離(かいり)があるようである。ディベートに関しても、全体的に国語の教科書に記述は増えてきてはいるが、教科書によっては欄外の注に「賛成・反対に分かれて行う討論で判定がある」といったディベートの説明が簡単に載せてあるだけのものもある。
 
 最近ある編集者から直接聞いた話だが、国語の教師に「ディベートを授業に取り入れてみてはどうか」と聞いたところ、「なぜそんな三百代言みたいなことをやらなくてはいけないのか」と言われて唖然(あぜん)としたとのこと。やはり「ああ言えばこう言う」イメージが根強くあるのであろう。
 
 しかし本来のディベートの趣旨は、主体的な判断を下す前に、あらゆる側面から問題を客観的に見つめ、その本質を探ることにある。時に自分の意見とは異なる側に立って議論することにより、他人の立場に立って考える訓練ともなる。逆にディベートをやらないことによって、ものの見方が一面的になったり自己の立場に固執しがちとなり、感情的になりやすい。ディベートは奇弁を弄(ろう)するためのものではなく、奇弁を見抜くための合理的思考法なのである。
 
 昨今の「日本語」本ブームも裏を返せば、言葉でうまく自己表現できない子供たちがすぐ感情的にキレたり、若者特有の言葉遣いなど日本語の乱れやコミュニケーション能力不足を表しているようでもある。日本語を声に出して読むのも良いが、それだけでは従来の読解や文学鑑賞の域を出ていないのではないか。
 
 実際にディベートを体験した学生は「いかに相手の言うことを聞けてないかがよくわかった」という感想を述べることが意外と多い。相手の言っている日本語の意味が理解できるということと、相手の主張を踏まえてさらに議論を発展させるというのはまた別の能力であり、こうした積極的な傾聴力や対話能力向上の訓練ができるのがディベートである。
 
 日本語の訓練として、特に従来なおざりにされてきた論理的思考の訓練や知的な議論の仕方を学ばせるのに、国語の時間におけるディベートは有用な手法となるのではないだろうか。


(上毛新聞 2002年7月9日掲載)