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民俗研究家 板橋 春夫 さん(伊勢崎市今泉町 )

【略歴】国学院大学卒。76年、伊勢崎市役所に入り図書館、市史編さん室、公民館を経て、98年から文書広報課。80年に群馬歴史民俗研究会を設立し現在代表。98年から日本民俗学会理事も務める。

「生命」と「いのち」



◎自然界も含む「いのち」

 私たちは「生命」と「いのち」を厳密な区別をせずに用いる。この二つの言葉にはどのような違いがあるのだろうか。医学史研究者の立川昭二は『日本人の死生観』の中で、「生命」は生物学的・医学的な用語であり、「いのち」は人間的・文化的な用語であるといい、さらに「生命」は目に見える身体に即して言うのに対し、「いのち」は目に見えない霊魂を含むと解説する。

 「いのち」の語源は「息の内」「息の道」「息の霊」といわれ、「生き」は「息」「意気」「勢い」に通じる。また、「息を引き取る」と言ったときの「引き取る」には「手元に受け取る」「元に戻る」「引き継ぐ」という意味があり、「いのち」は消滅するものでも断絶するものでもなく、元あったところへ戻り引き継がれていくと考えられてきた。

 「いのち」は人間の生命だけでなく、自然界の営みも含む言葉として用いられる。自然に親しんできた日本人は、草木虫魚にも「いのち」を読みとってきた。春に木々が芽吹くことを「いのちの芽吹き」といい、「花のいのちは短くて苦しきことのみぞ多かりき」の歌は、美しい桜の開花期間があまりにも短いと詠じる。

 「一寸の虫にも五分の魂」という格言があるように、日本人は虫にも人間と同じように「いのち」があると考えた。最近、子どもが地面を歩くアリを平気で踏みつぶしても注意をしない母親を目撃した。家庭はもちろん学校や地域社会の中で「いのち」の大切さを子どもたちに教えていく必要がある。虫も人間も地球環境の中の一つであることを認識することは重要なことであろう。

 南極やヒマラヤを目指す冒険家たちは、悠久とした自然界に身をおくと、一個の人間がいかに小さく、自然の中に生かされている存在の実感を一様に語る。「地球のいのち」という表現もあり、地球という星が構成要素になって一つのシステムを形成している。この場合の「いのち」は、地球を含む宇宙という大きな範囲であり、その関係性の中で把握すべきものであろう。「生命」が生物学的・医学的、あるいは科学的な意味合いを持つのに対し、「いのち」は関係性の中でとらえる性格を有しているのである。

 このことで思い出すのは、海と「いのち」の関係性である。人は引き潮のときに息を引き取るといわれる。現在では忘れられた伝承の一つであるが、年配の人であれば知識あるいは体験として、この俗信を記憶されているだろう。人は引き潮のときに息を引き取るという伝承は、「誕生は満ち潮のとき」という言い伝えと一対のものである。もちろん現実にすべての人が引き潮のときに死ぬはずはないが、これは自然のリズムと一体化した生と死に関する生命観が存在していた証拠でもある。


(上毛新聞 2002年7月10日掲載)