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高瀬クリニック院長 高瀬 真一さん(高崎市南大類町)

【略歴】勢多・東村出身。桐生高校、群馬大学医学部卒。74年、同学部集中治療部助手。85年、国立療養所足利病院医長。89年、済生会前橋病院循環器内科部長。95年、群馬循環器病院副院長。98年から現職。

遠い思い出



◎便利な世になったが…

 渡良瀬渓谷鉄道(旧足尾線)は、私の生まれ育った勢多郡東村では唯一の公共輸送機関です。かつて、存続をめぐり足尾線沿線の住民の努力により、第三セクターとして渡良瀬渓谷鉄道が誕生しましたが、年々乗車率が減少して、赤字は年々増加しているという。私は中学の時は花輪―神戸間を、高校の時は花輪―桐生間を六年間通学に利用しました。東京オリンピックのころでしたが、通勤通学客で大変込み合っていました。

 最近では、村の人口が減少しています。特に若い人が少なくなっています。昭和三十年代は、戦後のベビーブームで村内には三つの小学校がありまして一学年二クラスずつありましたが、小学生が少なくなったため、昨年四月小学校は一つに統合されましたが、一学年一クラスです。それに伴い、私の母校花輪小学校は廃校になりました。

 さて、昭和三十年ころの村の生活を振り返ってみますと、山が大部分を占める山村ですから、農業や林業従事者が多く、現在草木ダム周辺の草木、沢入では御影石の採掘加工に従事していて、いわゆる第一次産業がほとんどでした。その昔、銅(あかがね)街道であったためか旅館、映画館、パチンコ屋などもありました。そのころの農業はほとんどが手作業で、夏は水稲、冬は麦を作っていましたが、麦刈り、田植え、稲刈り、脱穀、麦まきなどは共同作業で行われました。その他、冬の寒いころ、麦踏み、春先の稲の苗おこし、夏の暑い時の除草作業など、一年中仕事はありました。

 さらに、養蚕が盛んに行われていました。卵から繭にするまで約一カ月、雨が降っても桑摘みに行ったり、蚕に桑をやったり、手間のかかる仕事でした。ですから、六月と十月の仕事が忙しい時期には、学校が休みになりました。でも、私たちの世代で農業を継いでいる人はほとんどおりません。林業においても同様です。植林をしてもスギやヒノキの苗は雑草に負けてしまうため、毎年七月ころ、下草刈りを行わなくてはなりません。炎天下に大変な作業です。足元にはマムシがいたり、ハチに刺されたりもします。十年もすると、木は大きくなりますが、間伐・枝おろしなど立派な木を育てるためには、三十年から五十年かかります。

 あれから三十年余が過ぎて、世の中は便利なりましたが、米や麦、材木の値段は外国の安い商品に比べると、太刀打ちできません。日本は先進国といわれる中でも、自給率を減らしています。国の政策転換により、第一次産業従事者が誇りを持って仕事をできるような状況になれば、村の人口も増えるでしょう。農山村や漁村には都会にない自然がまだあります。でも、山や畑は昔より荒れてきているのではないでしょうか。人里にシカやイノシシがえさを求めて出没するのは、動物にとってもつらい環境になってきているのかもしれません。

 人類は地球の中の生き物ですが、唯一地球を壊すかもしれない生き物です。地球にやさしくとよくいわれますが、昔の日本の良かったところを見直してはいかがでしょうか。

(上毛新聞 2002年10月1日掲載)