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対照言語学者・ブリッジポート大学客員教授
須藤 宜さん
(高崎市上中居町)

【略歴】高崎高、群馬大卒。東京教育大研究科、ユニオン大、立教大大学院をそれぞれ修了。教育学博士。大学教授を26年間務め、現在米国の大学の客員教授。著書15冊、共著3冊、論文28編。

学校と家庭


◎現代っ子に考える力を

 小中学校では「総合的な学習」の時間が新設された。「日本的学力」の弱点と言われる、自ら考え、問題解決力を育てることを目指している。しかし、知識をいかに与えるかに腐心してきた教師にとって児童・生徒の考える力を引き出すことは容易なことではない。さらに戦後紹介された経験主義教育理論に基づく「問題解決学習」が、画一的・注入的な指導に重点を置く「系統学習」によって取って代わられたという経緯もある。一方、効果的な学習を求めて多額の教育費を出す家庭も多い。

 旧文部省では昭和五十五年度から「ゆとりと充実」を目指した学習指導要領を実施し、今回の「ゆとり」と「生きる力」の育成が週五日制、授業時間・内容削減と絡めて実施されている。こうして見ると指導について、経験学習が大事だ、いや系統学習が大切だと時計の振り子のように揺れている。

 今こそ教育の理念と現代っ子の人間性開発の手立てを家庭も含めて考えねばならない。

 教育とは種々の対象について関心を持たせ、思考力や表現力を習得させる一連の過程で、向上心を起こさせる営みである。指導にあたっては、トップダウン式の押しつけではなく、生徒自身の内に感受性が育つような働きかけが必要だ。人が本来もっている知的意欲を引き出すのが真の教育だ。教師は個々の生徒と向き合い、生徒が口や手を使って学習するように辛抱づよく導くことが求められる。指導者は情報の独占や学習者との知識の落差に満足すべきではない。人間性豊かに生徒と接することが第一で、人間性豊かな教師でなければ

、生徒の意欲は引き出せない。また人間関係において、与えるものと与えられるものは等価である、という原則がある。生徒から学ぶことがなければ、本当に教えたことにはならない。

 テレビゲームに慣れ親しんでいる現代っ子は、目先の楽しさを求めがちである。しかし、ゲームの疑似現実からは物事を真に理解することはできない。だが、現代っ子は、読み書きそろばんはもはや必要ではないと考えている節がある。機械による合理化や機能化は、知的知識の醸成とは似て非なるものである。

 家庭では勉強を強制しても効果はあがらない。意欲を燃やして夢中になる遊びの態勢を、学習へと移行する努力が必要だ。多くの場合、遊びと学びを対立したものとしてとらえ、興味を遮断してしまう。そもそも人間のすべての行動や思考は、大脳で処理され、大脳皮質に支配されている。体を動かすことや、学習も人と人とのかかわり合いもすべて脳の働きによる。ただ、考えるということは、具体的な体験をしないで頭の中で判断することで、遊びとは作用が違ってくる。歩行には一年かかる。これは脳の未熟さと同時に、人は訓練により成長することを示している。思考の訓練にも時間をかけねばならない。

 思考力は活字から生まれる。読み聞かせが肝要だ。さらに読み聞かせをさせる。考える循環を築くことが学校と家庭の責務である。

(上毛新聞 2002年10月13日掲載)