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郷土史家 大塚 實さん(箕郷町生原)

【略歴】1934年箕郷町生まれ。小さい農園を耕しながら自給自足の生活をして、健康の維持にも努めている。96年から日本野鳥の会会員で、探鳥会に参加している。98年から箕郷町文化財調査委員。

井伊直政


◎地域や周囲の人大切に

 箕郷町に箕輪城跡がある。井伊直政が天正十八(一五九○)年、豊臣秀吉の小田原城攻めの後、徳川家康の関東入国に際し十二万石を与えられて箕輪城主となった。城の修築や、家康が大阪城滞在の際は江戸城の留守居で休まる暇もなかった。
 直政は箕輪城主となって、城の近くに榛名山祥寿院龍門寺をつくった。祥寿院殿は直政の法号である。白庵秀関大和尚の開山で、後に高崎山龍広寺を開き、高崎の地名は直政の高邁(まい)な意思を表すものとして直政にすすめた。その後、家康に請われて江戸に泉岳寺を開いている。

 箕輪城は在原業平の子孫といわれる長野氏が開いたが、白庵は龍門寺をつくるとき、以前の城主であった長野業政が開基の長純寺末寺であった鳳台院から建築現場へ通ったという記録がある。鳳台院は享保六(一七二一)年、榛名白川の大洪水により流失してしまい、この院号は高崎の少林山達磨寺に引き継がれている。

 直政は浜名湖の北、遠江の井伊谷で生まれたが、その生涯は戦国ドラマの凝縮だ。

 龍門寺境内の奥にある石塔が井伊直政の養父であった松下源太郎、一定、その子である高冬の三代のものであることが解明できた。

 松下源太郎は、直政が二歳のとき父直親が今川方によって討たれたとき、井伊直政母子を引き取って養子として松下姓を名乗らせ、厳しい駿河の今川氏からの追及を逃れさせた。直政は十五歳のとき浜松において家康に仕え、万千代の名前を与えられ井伊谷城を安堵(ど)された。源太郎は後に直政に従って活躍している。

 松下源太郎は引間(浜松)城の支城であった頭蛇寺城主の松下加兵衛之綱の兄で之綱には豊臣秀吉が少年時代に仕えた。柳生十兵衛の母は之綱の娘である。源太郎の弟、常慶は代々徳川家康の旗本として仕えた。

 直政は家康から井伊の名跡を継ぐよう指示されたため、母の甥(おい)である一定(後の松下志摩守)が源太郎の養子となった。一定とその子孫は、安中藩初代藩主、後に越後与板藩主となった井伊直政嫡子直勝の筆頭家老を務めた。

 源太郎は箕輪城が高崎へ移る前年の慶長二(一五九七)年没であるが、『龍門寺四百年史』によれば寛政九(一七九七)年に松下家先祖二百年忌が行われている。箕輪城跡の古図に松下郭もみつかった。

 滋賀県引佐町井伊谷から井伊直政研究家の伊藤信次、松田道雄、長野県高森町から木村昌之の諸氏を本町西原巌氏の同行を得て案内したとき、井伊直政時代からの杉山にある石塔について案内し、本来なら城主の親の石塔があるべき場所だが、誰のものか分からないので調査中であると話したら、開山堂で三位の位牌の中に「丸の内四つ目」の家紋があったから、確かにそういう気配がにおうということだった。その後さらに、井伊谷の龍潭寺や東京在住の喜美候部千鶴子氏の協力を得て、それぞれ本光院心月不染居士、正覚院傑堂天英居士、彗通院一燈玄光居士として松下家三代の確認ができた。

 また箕輪城跡には「木俣」があり、家康に仕えていた木俣守勝が直政筆頭家老となり、井伊直政は「関ケ原の戦い」の後に近江の佐和山城へ移り、彦根城の築城計画をたてたが、箕輪城を原型にしてつくったといわれる彦根城に木俣郭があることを見ると、木俣郭だったと推測できる。木俣を記録に残した人は素晴らしい。

 井伊直政は彦根に彦根長純寺を開いたり、松下源太郎など地域や人を大切にした人だ。一郷一学の課題として「箕輪城」をとりあげているが、学習内容は豊富に展開している。

(上毛新聞 2002年11月4日掲載)