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高崎捺染協同組合理事長 清水 英徳さん(高崎市昭和町)

【略歴】高崎高、立教大理学部化学科卒。清水捺染工場代表取締役。元ライオンズクラブ複合地区(本県など5県)管理委員長。染色の全国大会で通産大臣賞をはじめ中小企業庁長官賞など受賞多数。

高崎の染め物今昔


◎始まりは安土桃山時代

 山紫水明の古都、京都。そこに京染の優雅さがあるように、上毛三山をいただき、その麓(ふもと)より流れる烏川の清流に洗われた風光明美な高崎は、古くから東西交通の要所として、中山道を中央に走らせ、この地方の最も主要な土地として発展してまいりました。県北箕輪城主・井伊直政が慶長三(一五九八)年、高崎城(和田城)に移るとともに紺屋が移り住み、現在も町名にあるように「紺屋町」にその居を構えたもので、当時は主に、紺・黒・緋(ひ)などを専門に染めていました。当時、伊勢白子の型紙業者が高崎を基地として、東北・関東一円に型紙を販売していましたが、高崎ではその型紙を木綿に用い、引き染めによる藍(あい)染めが行われ、これが小紋藍染めの始まりとなりました。

 文化十五(一八一八)年四月の「関八州並伊豆共藍瓶役収納高」には、上州には紺屋が関八州で一番多く、中でも高崎付近が特に多かったと記されております。絹については、文化年間の手織りによる製織から始まり、明治五年、富岡製糸場の開業にともない、高崎絹太物市場が開設されたことで、広く全国に出荷するに至りました。むろん、京都にも販売されていた事実が高崎市史にも記載されております。
 捺染糊(なっせんのり)を用いての捺染は、安政五(一八五八)年パーキン氏が化学染料を発明してからのことで、高崎市史には「紺・黒・緋の染色を各専門に営むものと兼業するものあり。絹織物の隆盛なるに伴い、自ら繁栄せり。京都に於いて染色の今日の如く盛ならざりし時代には、此の地を以て唯一とせり。然るに彼の地の水質の染色に適するを以て長足の進歩をなせり」と記されています。

 高崎の型紙捺染は、明治三十四年に開始され、逐次、業者の数も増え隆盛を極めたものです。従来の小紋染から、現代の着物社会は、社会の生活様式の変化に伴い、多分にフォーマル化の傾向にあり、ここ数年は、冠婚葬祭・お稽古(けいこ)事、特にお茶席および踊りの披露などの場面には、今もなお、日本古来の美を求めて使用されております。特にその雰囲気に応じて、独特の日本らしさを表現するためには、いかなる時代の変化の中にあっても決して欠くことのできない大事な要素を持っているものです。

 高崎染の付け下げ類の特色として、明治時代から使われてきた手描き友禅染に加えて、型紙を用いて今までより以上に繊細な部分を、美しく表現できるところにその良さがあり、古来より高崎絹(上州絹)として全国有数の絹の産地と共存してきました。

 しかし、時代の移り変わりとともに、今までの“きもの”のための技術を用いて新しい分野にも力を入れ、現在ではテーブルセンターをはじめ、印物、正絹小紋、ネクタイ、正藍染めおよびシルクスクリーンによるTシャツ、小物類のプリント、室内インテリア等、広範囲にわたる製品開発を行っています。

 これからは、過去の技術や長年養われた伝統を大切に保存する設備を造り、伝統技能を将来に伝える努力をすることがわれわれに残された使命であると思っております。

(上毛新聞 2002年11月8日掲載)