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声楽家・夢詩歌音楽教室主宰 糸賀 真知子さん(沼田市高橋場町)

【略歴】群馬大教育学部音楽科卒。声楽を成田絵智子さんら4氏に師事。日本のオペラを「オペラシアターこんにゃく座」で学ぶ。沼田市で夢詩歌音楽教室主宰、同市の女声合唱団野ばら会指揮者。

自分の歌のルーツ


◎のどが自慢の祖父や父

 十五年ほど前、私の歌のステージを見た後に五歳の三男が、「ママは何であんなに歌が好きなんだろうね」と言ったのを母が聞いて、「あんた、自分のことはもういいかげんにして息子たちにかけなさい」と言われました。けれど私は、歌をやめるどころか、仕事を持つ母を頼るのは無理がある、と別の方向を模索したのでした。今思えばどうして、これまで歌ってきたのか、こられたのか、自分でも不思議です。

 そこで、自分の歌のルーツをたどってみたいと思います。歌好きの血筋はどうも父方にあると思い、先日、初めて、父からじっくり話を聴きました。父方の祖父は鳶(とび)職で利根沼田の木やりの名手。建前の後ほろ酔いでごきげんで歌いながら帰ってくる祖父をよく覚えているとのこと。父も歌が好きで、働き始めたころに、アコーディオン、ギター、マンドリンなどと楽団を組み、音楽好きな仲間と歌っていた。寺の住職の企画で、あちこち慰問にも行った。召集後は、集会や宴会の時などに、上官の求めでよく歌った。終戦をむかえ、上海からの帰国の船の上で、「リンゴの唄」を聴き、「何て明るい歌だろう」と感動した。戦後は国鉄に復帰、労働組合の文化部で仲間とともに合唱団をつくった。慰問や集会では司会と独唱もした。師につき、コールユーブンゲンを基礎からたたきこまれた。歌声運動にも積極的に参加した―などと次々に懐かしい話が語られた。

 今でも日本歌曲、童謡、当時の流行歌から世界の名曲まで時々、自慢ののどを聴かせてくれる父である。大正十二年に生まれ、激動の昭和を生きぬく父の傍らにはいつも歌が一緒にあったことを初めて実感した。

 さて私自身の小さいころの記憶をたどってみると、ラジオの童謡番組をいつも楽しみに聴き、歌っていた。母の話によると、数十ページある小さな歌集を持っていて、その本の歌をそれぞれ一、二回しか歌ってやらなかったのにみんな覚えていて、字も読めないのに、そのページを開くと歌うので、叔父たちがおもしろがって、「これ歌ってごらん」とよく歌わせていたらしい。

 三歳から十歳ごろまでは、新前橋の巨大な集合住宅に住んでいて、そこでは、自治会や子ども会などが活発でバス旅行に行ったり、プールに連れていってもらったり、親がいない時も近所の人が面倒を見てくれた。だから子どもたちも兄弟同然で、「〜ちゃん、あそぼ!」と声をかけあって缶けり・なわとびなどは二、三十人もで大きい子も小さい子も一緒に遊んだ。ままごと・まりつき・石けり・ベーゴマ・絵かき歌など遊びの中に自然に歌があった。

 これらが、私の歌の原点のようだ。この土台があるからこそ今でも、みんなとともに楽しめる歌、みんなの心に届く歌が歌いたいと思うのかもしれない。「何であんなに歌が好きなのか」と言った末っ子は今、大学生。「おれさぁ、この間、―(友人の名)と話したんだけど、母ちゃん(私のこと)いい生き方してるよな。好きなことやってさ」の言葉に、「でも、私が好きなことばかりしているから、子どもたちが思うようにならなかった、と父ちゃんに言われているよ」と言うと、「いいんじゃないの。みんな自分の好きなことして生きていければ幸せだよ」と言い始めました。

 ともあれ、寛容な亭主と、わがままな母に耐えてくれた子どもたちがあって現在の私があるのです。今、自分の歌の方向を見つけ、来春から新たなスタートを切るところです。次回からは出会ったさまざまな歌たち、素晴らしい師たち、友人たちにふれながら、私の歌の話を進めてまいりたいと思います。

(上毛新聞 2002年11月27日掲載)