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ベルツ記念館長 沖津 弘良さん(草津町草津)

【略歴】沼田高卒。群馬銀行に20年間勤めた後、草津に戻り、草津温泉旅館協同組合専務理事、草津温泉観光協会専務理事などを歴任。2000年にオープンしたベルツ記念館の初代館長となる。

草津温泉と地域因子


◎ベルツ博士が偉効指摘

 歴代の草津町長の口からはよく「私は草津温泉の客引き番頭です」という言葉が聞かれました。この言葉こそ草津町の特異性を表現していると思われます。越後・信濃・上州との三県の境界に接し、標高二千メートルの山々に囲まれ、鳥居峠から東流する吾妻川と、白根山系から流れ出る須川によって土地は大きく分かれ、吾妻川の南部は浅間山の北麓(ろく)地帯となり、北部は白根山の南東麓となり、いずれもなだらかな丘陵の端は吾妻川と須川に達し、谷の深い絶壁と急流は人を拒み、それゆえに古墳文化は極めて少なく、居住の痕跡は認められません。

 草津への旧道須賀尾峠から眺めると、標高千二百メートルの丘陵地の中央部に「ポツン」と見える集落が草津町で、自然に囲まれ、四辺の村落から離れた現在地には、いつのころから熱湯がわき出ていたのかは定かでありません。幾つかの伝承が語り伝えられてきましたが、長い習慣から自然に湧出(ゆうしゅつ)している温泉をそのまま利用する温泉文化が育ち、その温泉を唯一の生活の糧として生活している町でもあります。

 明治八年七月、熊谷県楫取権令に提出した草津村の議定書に「抑當村之儀者四周山嶽土地寒烈ニシテ蒔種スルモノ僅ニ大根馬鈴薯ノ外無之各自農事ヲ営ムニ便ナラス全ク温泉之盛衰ニヨリ生活ヲタツルハ固ヨリ論ヲ俟タス」。同じく第二条には「當村之儀ハ温泉第一之渡世ニ付旅客ニ対シ不作法之無様召仕末々迄屹度申付置…」とあり、この土地の地形や位置、気候や風土の置かれた地域の特性を表しております。

 このような草津温泉に、一脈の活を入れた人がおりました。明治九年に日本政府の招聘(しょうへい)で来日、東京大学医学部で二十六年の間教え、多くの医者を育てて時の高位高官や皇室に信望の厚いドイツ人医師、フォン・ベルツ博士でした。博士はヨーロッパにはない、草津温泉の強い酸性泉の泉質で、高温の温泉を用いた「時間湯」の浴方が治病に偉効があることを知り、自然湧出量の多いこと、気候条件、特に気温・湿度が医学的にも大変興味ある土地柄であることを指摘し、毎年のように訪れ、草津村の若き指導者たちと共に山登りや散策に、酒を酌み交わしては草津温泉の将来像を語り合いました。

 まだこのころの日本には、数多い温泉地がありながら、その実数すら分からず、また、この天与の恵みを理解していないことに驚いた博士は明治十三年、中央衛生会から「日本鉱泉論」を出版して、温泉に関する一般知識を述べ、温泉地の進むべき方向を示唆して全国の温泉地の指標としました。

 ベルツ博士に学んだ草津の指導者たちはその後、代々町長として行政を担い、温泉保養地の構想を提唱するとともに、温泉を守り、時が移り変わっても、温泉によってのみ生活する地域の基本姿勢は変わりません。環境や経済構造が地域性を生みだした草津には、特異な地域因子が育ってきたのではないでしょうか。

(上毛新聞 2002年12月14日掲載)