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山田かまち 水彩デッサン美術館館長 広瀬 毅郎さん(高崎市片岡町)

【略歴】学習院大卒。東京銀座で画廊修業の後、高崎に広瀬画廊を開く。1992年に山田かまち水彩デッサン美術館、98年、滋賀県に建築家、安藤忠雄さん設計の織田廣喜ミュージアムを開館する。

17歳、2人の少女


◎年末になると思い出す

 かまち美術館で二、三十分話しただけなのに、毎年年末になると思い出す二人の少女がいます。一人は小柄で無口な少女で、自分の絵を見てほしいらしく画用紙を丸めて毛布でくるんで持ってきました。質問してわかったことは、かまちの絵に感動して大阪から来たこと、現在十七歳で高校へはほとんど行かず、一人であちこち旅をして絵を描いていること、父親が応援してくれていて絵の梱包も父親がしてくれたことなどでした。

 絵は水彩・パステル・コンテで描いてあり、画題は自画像、男の顔、裸婦、ピエロ、恋人たち、砂浜、波、月、オートバイ、花、魚、カニ、カエル、子犬など興味のあるものは手あたりしだい描いてしまうという感じで、百五十枚ほどありました。

 たたきつけるような、渦巻くような激しいタッチが特徴で、どの絵からも「さあ絵を描くぞ!」という激しい意欲と思うように描けない苦しさ、いら立ちが伝わって来ます。

 中川一政が若い人の絵をボクサーにたとえて「パンチのあるボクサーと技術のあるボクサーならパンチのあるボクサーを買う。ノックアウトのパンチを持っていれば技術は後からついてくる。薪(まき)ざっぽうを振りまわしているような絵を描く人が結局いつかはものになっている」と言っていましたが、彼女の絵はまさに薪ざっぽうを振りまわしているような絵でした。

 私はピカソの「芸術には絶対的法則などないのだ」という言葉だけを彼女に話しました。次の日、出勤してくると美術館の玄関の所にあの絵の梱包がゴロリと置かれていました。「勝手に置いていって申し訳ありません。ありがとうございました」というメモが付いていましたが、名前も住所も書いてありませんでした。あれから八年、元気でいれば二十五歳のはずです。

 もう一人は、平成七年十二月九日に、姉さんに付き添われて車いすで大分市からやってきた秦孝代さんです。この日は彼女の十七歳の誕生日で、山田かまちと氷室京介の育った高崎で誕生日を迎えられて夢のように幸せだ、と言って泣き出してしまいました。

 それから四カ月ほどたった平成八年三月三十日に突然、姉さんからの電話で「昨夜妹は死にました。病名は横絞筋肉腫でした。彼女の生涯でかまち美術館への旅行は最大の出来事でした。あの時妹は館内の感想文ノートに何か書いていたようなので、よかったらコピーして送ってほしい」という頼みでした。私はコピーではなくノートを切って額に入れて送ってあげました。

 「H7 12月9日(土) かまちへ 十七歳の誕生日かまちに会いにくることが数年来の夢でした。今日は沢山の人達の協力を得てその夢が叶いました。二年前からの病気で車いすでの来館となりましたが、かまちにあえてよかったです。歩けるようになって又逢いに来ます。夢をありがとう。大分県 たかよ 十七歳」

(上毛新聞 2002年12月28日掲載)