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県保護司会連合会長 若槻 繁隆さん(伊勢崎市茂呂)

【略歴】大正大学文学部卒。1952年から、保護司、高校教諭として活躍。88年、太田高校長で定年退職。退魔寺住職として前橋刑務所教誨(かい)師を務め、受刑者への説話を続けている。

教育制度見直し論


◎小手先の論議に走るな

 最近、またまた教育制度の見直し論が台頭してきているようである。即ち学力の低下を憂い、道徳の欠如を嘆き、一部中高一貫教育の優秀な成果を受験界で挙げていることを意識した論かもしれないが、相当な波を起こす可能性を秘めているとも考えられる。その裏には、今の制度は敗戦によって押しつけられたもの、という思考もあるのかもしれない。しかしどんなことを言い、どんな制度を考えても、要は「人をつくる」ことが中心でなければ、何の役にも立たないのである。それがどんな立派な制度であっても。ペーパーテスト至上主義は駄目だと言われて久しい年月を経ている。生徒と同じ目線で見、同じレベルで考えて、と言われたことも久しい。そして学校は荒れて、不登校は増える一方である。何が欠けているのだろうか。それは教育年数や教科内容・家庭内の親子のゆとり等々だけの問題ではないのではないか。昔から「悩み苦しみ」は誰に相談するかという問いに対して、先生とか親と答えた者がほとんどないと言われてきている。先生に叱(しか)られて一時は恨んでも、社会的に活躍するころになって、あれが「今の俺をつくってくれたのだ」と言う人もあると聞いたことがある。まさに教師冥利(みょうり)と言うべきであるだろう。中高一貫教育にしても何を目標・目的にするかによって、それは予想外のものになってしまう恐れがある。敗戦までは中等教育は五年制でもあったのだ。

 戦後間もなく米国から「暴力教室」という映画が入ってきた。敗戦後の衣食住に事欠くころであったが、恵まれた国の病んでいる姿を見て、負けても日本はあんな国ではないという自負をもったものである。しかし、それから五十年たった今はどうだろう。心はすさみ、命の尊さを忘れ、自己中心的で、他人に迷惑をかけて平然とし等々、数え上げれば切りのないほどのことが出てくる。こういう中で育てられた人たちが近い将来社会の中心となり、国家を経営していくことを考えると、慄然(りつぜん)としてくる。物質面の豊かさの中で育ち、精神面の充足を求めようとしてオカルト宗教に翻弄(ほんろう)されて、殺人にまで至ったのはつい最近のことである。ただ高学歴だけを至上としてきた最も悪い結果と言うべきかもしれない。現代はややもすると、自己顕示・我利我欲の充満した世界で、それが国家間でも、民族間でもストレートに表現され、本来人を救済すべき宗教でも異端の徒は抹殺するという。そして虎(とら)の威を借りて相手を屈服させようとする。どうしてこんな世の中になってしまうのであろうか。

 今、ややもすると教育の本質から外れた小手先の制度改革にのみ論議が走り、現象にとらわれて、本質が見えなくなっているのではないだろうか。週休二日制は群馬県では昭和二十七年まで実施していたこともあり、それが是か非か、このあたりで腰を据えて、本来の教育の神髄を探り、地位や権力に動かされない、真の心の教育が追求されなければならない時が到来していることは、火を見るよりも明らかである。

(上毛新聞 2003年1月4日掲載)