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あさひ小学校支援隊顧問 森尻 昆男さん(太田市東別所町)

【略歴】太田高卒。米国駐留軍で接客業に携わった後、1958年に群馬県警に入り、実家の都合で64年に退職。民間企業2社に勤務し、86年に退職。昨年4月からあさひ小学校支援隊顧問に就任。

50数年前の記憶


◎小学3年生で地獄見る

 ともすると風化しそうな太平洋戦争のことや、つぶさに体験した太田市の、その忌まわしい戦禍の出来事を、支援隊の立場から若い世代(含む小中学生)の人たちに、生の声で伝えていきたいと願いつつ、五十数年前の記憶をたどって筆を執りました。

 その記憶は戦争末期、私が小学三年生だった昭和十九年十一月の出来事で、アメリカ軍のB29(爆撃機)一機が初めて帝都上空から、太田に偵察目的で飛来したことから始まります。同二十年に入ると全国が空襲に見舞われはじめましたが、太田には二月十日、B29の編隊が大挙飛来、数度にわたって中島飛行機太田製作所(現富士重工群馬製作所)を空爆、第一回の洗礼を受け、折からの季節風にあおられて、東隣の韮川地区も甚大な被害を受けました。続いて十六日、二十五日には艦載機の重爆撃で、同太田・小泉両工場が、また四月三日夜半から四日未明にかけて太田駅、中島飛行機太田・小泉工場が破壊され、生産まひに追い込まれてしまいました。

 実は四月三日夜半の出来事でした。私とすぐ下の弟は学童疎開で父の実家に身を寄せており、父が軍人(海軍)で、母と弟妹も神奈川県の久里浜に住んでおりましたが、戦況の悪化により太田に引き揚げることになり、三日に家財道具が太田駅に届いたとの知らせで、「燃やさないうちに引き取ろう」ということになりました。叔父たちが居住予定の借家(下浜田町)に運び込んだのはよかったのですが、母方の実家は空爆で直撃を受け、住んでいた家は跡形もなく、また叔父夫婦は重傷(四女は絶命)、新宅では爆弾の直撃で、一家七人が無残にも犠牲になってしまいました。

 三日後に叔父夫妻の消息を案じて病院を見舞ったのですが、一命はとりとめたものの、院内では十分な治療も受けられず、けがをした多くの人たちのうめき声、さらには薄い毛布に包まれたままの遺体が、所狭しと寺院や病院の隅に放置され、小学三年の私はこの世の地獄を見てしまいました。以降七月十日、二十八日、さらに八月十四日夜半から十五日未明にかけて焼夷(しょうい)弾による洗礼を受け、借りていたわが家も全焼。四月三日、太田駅で災難を逃れた家財道具も全部焼失いたしましたが、幸いにも家族にはけが人もなく、せめてもの救いと安どいたしました。後で分かったのですが、私たち家族が避難した防空壕(ごう)から十数メートル離れた雑木林の壕で、Aさん一家六人が焼夷弾の直撃で犠牲となっており、皮肉にも翌十五日に終戦を迎えました。

 あの忌まわしい戦争をほごにしてはならないと、同五十二年八月十日、被爆犠牲者の三十三回忌を祈念して、太田中央公園(市民会館)に「太田市戦災被爆者慰霊記念の碑」を建設するはこびとなりました。建立にあたって市当局、市民各層の協力のもと、この国の永遠の平和をこい願う被爆遺家族のせめてもの願いでもあり、会長の大越福さんはじめ、役員十数人の悲願として、これからも厳粛に受け止めてゆかねばなりません。太田市史近代編によりますと、犠牲者二百三十一人と記録されておりますが、罪のない人たちがなぜ犠牲にならなければならなかったのか、今でも納得できません。

 今後は二度と戦争を繰り返してはならない、起こさせてはならない。そして、いつまでも本当の平和であることを多くの人たちに訴え続けてまいりたいと、いつも思っております。

(上毛新聞 2003年1月16日掲載)