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おおままおもちゃ図書館「もみの木」代表 渡辺 紀子さん(大間々町桐原)

【略歴】前橋文化服装学院(現・前橋文化服装専門学校)卒。洋裁教室を開く。大間々町の小中学校で特殊学級と図書館司書の補助員を9年間務める。1992年に「おおままおもちゃ図書館もみの木」を開設。

特殊学級補助員


◎大切なものを見つける

 早春の夕暮れ、信号待ちをしていた私の車は、突然激しい衝撃で押し出され、前の車にぶつかりました。一瞬何が起きたのか…。助手席の母は、後部座席の子どもは…。目を向けると、母はうずくまり、子どもはシートにしがみついていました。後ろのガラスはひび割れ大きな穴が…。追突事故でした。状況を理解するには時間がかかりました。少しずつ理解できてきた時、割れるような痛みが頭を胸に走りました。救急車のサイレンの音と家々の屋根がくるくる回っていました。母は胸椎(きょうつい)の圧迫骨折で全治六カ月、私は強度の頚椎(けいつい)ねんざと胸部打撲で全治三カ月、幸い子どもは軽症で済みました。

 それから母と二人、身動きも取れず病院のベッドの上で、ただ痛みに耐える日が続きました。多くの人たちの温かな励ましに支えられての入院生活、十二年前のことです。母はそれからも寒くなると背中を中心に激しい痛みに襲われ、動けなくなります。気圧の低い時は、私の首もこわばり、動かすのもつらい状態になります。テレビに交通事故のニュースが流れるたびに、車社会の怖さを感じ、死亡事故はもちろんのこと、けがで済んでも、後々までも後遺症により苦しむ人が一人でも少なくなるよう、祈らずにはいられません。

 そんな状況の中で「命が助かってよかったね」のお医者さまの言葉に、せっかく助かった命なのだから、元気になれたら私にできることを探して、頑張ってみようかなと、漠然と考えていました。事故から一年が過ぎたころ、子どもの通う小学校の特殊学級の補助員のお話がありました。「ハンディを持つ子どもさんのお世話」が主な仕事です。

 初めて教室に入った時、真っすぐに見つめる澄んだひとみ。不自由な手で力いっぱいの拍手で迎えてくれた子どもさんたちとの出会いの日。本当に大切なものを見つめる日々のスタートでした。四月八日、桜の花びらの舞う渡り廊下を、ピカピカの一年生のS君と手をつないで、体育館での入学式に向かった日の手のぬくもりは、今も残っています。同じ一年生のY君は、ダイナミックな“クレヨンさばき”で、画用紙いっぱいに黒い山と真っ赤な空を描いてくれました。そのころ、伊豆大島の三原山の噴火のニュースが伝えられていました。感受性豊かな一年生二人、元気な五年生二人、車いすの六年生二人と先生と私、八人の世界。毎日、新しい発見やふれあいが待っていました。

 ある日、お友達に車いすを押してもらい体育館へ移動する時、バランスを崩し、車いすが倒れてしまったのです。抱き上げる私の力のなさがもどかしく、やっと起こした時、「渡辺さん、泣かないでください。ぼく、大丈夫だから」。車いすに乗っていた少年は、私の顔を見上げ真剣に言ってくれたのです。大丈夫なんかではありません。おでこに血がにじんでいました。彼の優しさに、また涙があふれました。そのことをお母さんに謝りながら伝えた時、「お友達をしかったのですか」「いいえ、注意しただけです」。小さい声でしか答えられない私に、「よかった! これからもお友達にはたくさんかかわってほしいですから」。お母さんの言葉に驚きました。一番にけがを気にして、強い注意を求められると思っていたからです。

 ハンディを持つ子どもさんに対するお母さんの深い心を知る第一歩でした。

(上毛新聞 2003年1月22日掲載)