視点 オピニオン21
 ■raijinトップ ■上毛新聞ニュース 
まちづくりコンサルタント・コモンズ主宰 庭山 由紀さん(桐生市新宿)

【略歴】日本大大学院博士後期課程修了。農学博士。一昨年はオリジナルカレンダー「桐生楽暦」や目的別地図「桐生楽地図」を製作するなど快適な桐生暮らしを追求。県一郷一学の講師なども務める。

福祉



◎「与えるだけ」に疑問

 最近私は混乱している。「福祉」ってなんだろう、って疑問を持っている。福祉は大切で必要なことだと思う。福祉の現場で頑張っている人もたくさんいる。頭の下がる思いだ。しかし、そうではない「ただ与えるだけの福祉」に疑問がある。

 昔、「第三世界(発展途上国)の開発」について学んだ。学んだその中で、「援助」と「ただ与えるだけの福祉」は、共通点があるように思う。「援助」の中で特に興味深かったのは「援助貴族」という人たちの存在である。「援助貴族」とは、特に第三世界の援助ビジネスに携わり、高給を取りながら援助に寄生している人たちのことを指す。

 当時の風潮は、ODA(政府開発援助)が悪玉でNGO(非政府組織)が善玉という単純なロジックがあったが、単純な私はそれに同調し、NGOの職員としてある国の難民キャンプに行ったことがある。難民キャンプは、その周辺の農村より、「豊かな」生活レベルが保障されていた。その難民キャンプで、各国からNGOで「援助」に来た人たちに出会った。すべてとは言わないが、その団体が大きくなればなるだけ、国際的な機関と関係を持てば持つだけ、「援助貴族」が多かった。そこで見た援助は、難民を単に与えるだけの対象ととらえ、「困っている人を援助する心地よさ」という自己満足的な傲(ごう)慢さを感じさせるものだった。「援助」は、特に災害時など緊急を要する場合、必要なものだが、少々乱暴に言い切ってしまえば、援助する側への従属度が高まるだけで「援助は人を助けない」と思った。

 「これはほっておけない」と痛みを感じることはNGOの原点であった。ではどうして「ほっておけない人たち」が存在するのか。その人たちが巻き込まれている社会構造的な原因の啓蒙(もう)活動や学習活動が必要だろう。すると、「先進国といわれる国に住む私たち自身の問題」が浮かんでくる。つまり大量生産・大量消費のグローバル化した社会をさらに拡大し、先進国の社会を支えるために、開発や援助が行われていることが多いという構造だ。

 さて、単に与えるだけの「援助」的「福祉」に陥らないためには、どうしたらいいのか。まず、私たちにできることは、(1)自分たちが対象とする人たちの状況を構造的にとらえること(2)お金やものを与えること自体は悪いことではないが、その使途を見極められるところに出す(3)相手の状況解決への努力―などで、そのためには人びとの連携と連帯が必要になってくるのではないか。

 「善意」という発想そのものは間違っていない。人としてあったかくて、必要な、大切なものだと思う。が、「ただ与えるだけの善意」は「偽善」で終わることが多いのではないか。ふつふつと考えをめぐらす今日このごろである。

(上毛新聞 2003年2月15日掲載)